ぼくらのスーパーヒーロー
朝もやと、露で足下がすべるのに躊躇して、僕は石段を上る。
今年は空梅雨のせいかずっと暑い日が続いているのだけれど流石に早朝は涼しく、そしてどことなく肌寒いような。
「…………ふう……………」
冷やりとした空気が顔を触り、背中の重みだけが暖かい。
時折もぞりと動く、背中の重みが肩ごしから顔を覗かせた。
「兄ちゃん、俺歩ける」
弟は眠たさの残る声で僕を気遣った。
「達哉」
もうじき6才になる弟は以前よりも少し大人びた口調で話したがるようになって、一人で何でもできると主張する事が増えてきた。
弟くらいの年頃の子は「一人でできる事」や「人よりすすんでいる事」が「すごい事」、ひいては人に自慢できる事の目安になっているようだった。
だから、今僕におぶわれていることは弟の中の自負を揺るがすものなのだろう。
自分一人で何でもできる、誰に頼らないでも歩いていけると。
そんなふうに弟の目は言いたげであったから。
「…僕が上ろうと言い出したんだし。達哉はいつも裏側の坂道からしか神社には行かないだろう?だから、まだ寝ていなさい。頂上についたら起こしてあげるから」
でも…、とも目がいいたげだったけれど。
「大丈夫だよ…それに僕が言い出したんだ。いいものを見せてあげるって、それに」
アラヤ神社への正道の石段は子供や女性の足では時にきつく、最近は周りが住宅街になった為に正道に形を似せた、緩やかな石段を本殿への表参道として使おうとする動きもあったけれど、僕は本道を選んだ。弟に伝えたい事があったから。
「…大変な道の方が、後から嬉しくなるんだよ。…僕が言い出した事だしね」
弟が一人で歩けると申し出たのは僕の額から滲む汗の玉を見遣っての事もあったのだろう。ここは僕一人でも傾斜がきつく、足下に気をつけなければ階段を踏み外してしまうくらい歩きにくい石段だから。
でも、だから余計に上りたかった。
「じゃあ、僕歩くよ。後から嬉しくなるんなら」
嘘をつかない事と、宣言した事をやり遂げる達成感。そうしたことの素晴らしさを教えてあげられたらどんなに苦しくても僕はその時まで希望を繋いでいられるだろうから。
「…僕が言い出した事だから、眠っていなさい、達哉。頂上についたら」
僕一人で上りきりたかった。宣言した事をやり遂げて、約束を守ると言う、誰もがわかりきった大切な事である…一番シンプルで、けれど難しい事。
「…起こしてあげるから、いいものを見せてあげるから」
そうしたものを達成したかったから、自分の為に僕は申し出を断った。
達哉くらいの年の子が「すごいこと」で人に認められる為に背伸びするように、僕もこんな些細な、じぶんだけのこだわりで自分を誉めてあげたかったから。
「だから眠っていなさい…達哉」
僕は石段を上る。
ふらつきそうな足下が石段を踏み外さない事と、背中の重みの安らぎを崩さないことと、それと。
「いいものだけ、見せてあげるから」
弟には、少しの曇りもない綺麗なものだけ見せてあげたかったから。
そうしていたなら僕はずっと、自分を誉めてあげられる。
何にも押しつぶされる事等無しに。
「…………昨日アレみたあ?………あのコント超ウケるよなあ」
いつもドアをあける度に躊躇する。
「…………ええ?ああ、笑った。ちょーおかしい。いいよねえアレ」
ドアの向こうからひしめいている和やかな空気。
短い言葉の中に込められている連帯感とかそうしたものが開けた途端に異質なものに変わってしまう瞬間をいつか受け止めきれなくなるのではないかと。
「…………………ゴリがさあ。ブレイクダン………………。…あ」
いつも、2分躊躇して一気に開ける。
「………………………………………………っ」
顔は上げて、何ごともないような顔で。不安など微塵も感じさせないような、平静を保って。
「…おはよう」
あたたかな連帯感が引き戸を開け切った音と共に異質な、よそものを見るような目に変わる。
「………………あ、ああ」
凍り付いたような、不快を気取られないように取り繕ったような能面の笑顔が無数に散らばっている。
「………………はよう」
言い淀んだ声が距離を計っている。
それは僕が席について、自分達から視線を外し教科書を取り出す音を心待ちにして。
「……………そういえばさあ、酒井若菜のさあ」
何気なく自分達の空気を取り戻す機会を窺っている。
「……………ええ〜?俺あんな目の細い女どうでもいいけどなあ」
それとなしに僕を無視できる機会を窺っている。
波風を立たせずに内輪の連帯感から邪魔者を疎外できることを願って、正面から向かっては来ずに、それとなしに隅に追いやって、輪の中から外して。
「胸でかいからいいじゃん。俺それだけでじゅうっぶん!」
普遍の日常の中で自然に繰り返す。
輪の外に追い出しても「邪魔者」が根を上げるまで何度も繰り返す。
悪かった、許してくれと自分達の前で自尊心をかなぐり捨ててみせる迄何度でも繰り返す。
「………やあだあ、男子ってばやらしー!」
…でもそうしたことが見える反面、自分ももしかしたらそうしていたのではないかとも考える。
はるか向こうに見える「調和」の輪の中に、ほんの少し前迄は自分も確かに存在していたのだから。
「…息子さんでしょう?…ちょっといいかなあ、ちょっと!ねえちょっと!」
マイクを持った人や、メモを取る人、シャッターを切る人が、僕の家の前にある日群がった。
「お父さん捕まっちゃったけど…ねえ、君どう思う?息子さんとしての意見是非聞かせて欲しいんだけど!」
…テレビではよく見る光景だ。
ワイドショーとかで、誰かが容疑者として捕まると、またたくまに群がってくる人種。
それらは自分とは全く関係のない存在だと思っていた。
「家に入りたいんで、よけてもらえますか」
テレビで見るよりも人数は少ないと思った。
そりゃそうだろうな、ローカルな事件だし、死者が出たってわけじゃない。
けれど人垣を作るには十分な騒音で、近所の見なれた顔がこちらを遠巻きに見ている。
「………ねえ、ねえ。一言で良いから」
テレビで見るよりも少ない、そういった人垣を押し分けるのは意外と難しいと思った。
「………家に入りたいんで…………」
気を引き締めていないと流されてしまう。
体を強張らせていないと隙を見せてしまう。
「お父さん…真面目な人だったんでしょう?なのにどうしてあんなことしたのかな、ねえ、君どう思う?」
隙を見せてしまったらなだれ込んでくる。
「…放火なんてさ、僕らにはする人の気持ちが解らないからさ」
懐っこい顔をしてこじ開けようとしてきて。
「……………いえに…………はいりたいんで…………」
わかったような顔をしてのさばって、納得する迄許そうとはしない。
「ねえちょっと!答えてよ!ねえ、ねえ君!」
…そんなふうになだれ込んできて押し入っては、納得する答えをもぎ取る迄赦してはくれない。
「よけて…くれませんか………いえに………」
だから隙を見せずに。門扉に触れようと。逃げ切ろうと手を伸ばした。
……だけど。
「君の家は燃えなくてよかったよね」
ローカルな事件でも死者が出なくても、誰も許してはくれない。
「………………いえ…………に……………」
どんなに小さな事件でも、些細な事でも、誰かはそこに関わっていて…誰も傷付かないことなんてこの世の中にはないのだから。
「神社だからまだよかったけどさ、人の家だったら自分のうちだとかそんなこと、いってられないよね」
だから、僕らは向き合わなくちゃいけないんだ。些細な事で誰も悲しまないですむように。
「お父さんがしたことかもしれないけど、君家族でしょ?知らない顔してる訳にはいかないんじゃない」
自分がしたことでなくても、自分が受けたことでなくても。辛い目にあった人の悲しみができるだけ少なくなるように。
「父さん………………………」
だから僕らはがんばらなくっちゃいけないんだ。
僕らのがんばりを誰も認めてくれなくても。誰もわかってくれなくても。
「……………父さん」
でもこんな話、克哉にはまだ難しいかなあ。
…約束やぶった理由にはならないけど。克哉達の事どうでもいいから今日の約束…すっぽかした訳じゃないことだけでも分かって欲しかったから。
「父さんの………」
そうやっていつも、父さんは悲しそうに笑った。
連日の激務に休みをとることもままならず、とれたとしても急に仕事が入る事がしょっちゅうだった父さんは、僕ら家族との約束を反古にする度に申し訳無さそうに背中を丸めて寂しそうに座り込む。
『………父さん』
小さな頃は泣いた事もあったけど、そんなのもう慣れっこになってしまったから文句なんか言ってないのに。
それでも父さんは申し訳無さそうに背を向けて座り込む。
謝罪の言葉は言い尽くしてしまっていたから、そういう姿勢をとることでしか自分の気持ちを表現できなくなっていたのだろうと、今になるとそんな風に思える。
『難しくないよ、僕もう中学生だし…弟だっているんだし』
背中に答えると、父はパアッと明るく微笑んで振り向いて。僕を抱き込んだまま立ち上がってはくるくると回る。
『…やめてよお。はなしてよお。重いでしょう』
「飛行機遊び」を僕にしてくれて、喜びを表現して子供みたいに。
『…重いなあ、少し会えないうちに克哉はこんなに大きくなったんだもんなあ』
くしゃっと微笑んで子供みたいに声立てて笑う。
そうしてくれる事が、けして僕を忘れていた訳じゃないことを証明してくれる。
『やだなあ、恥ずかしいからやめてよ。ねえ、おろしてよ、父さん』
父さんの中での僕は、飛行機遊びをしてもらうのが好きだった頃のままだったんじゃないかと思う。
『…大きくなってくなあ。もうちょっとしたら抱き上げられなくなっちゃうなあ』
どんなに大きくなっても、赤ん坊の頃と同じく。父さんの中では小さな僕のままで。
『…次こそは一緒に遊びにいこうな。…早くしないと…克哉はどんどん大きくなっちゃうからなあ』
くるくると僕を抱き上げてあやした後に語る。優しい瞳で。
『…約束を守らない父さんだ、って…嘘つきだって、思われたく、ないもんなあ』
約束を破られるのは嫌だったけど、僕はそういう時の父さんが好きだった。
『そんなこと思って無いよ…嘘つきなんて言って無いよ』
自分が嘘をついていないことを。
『だって忙しいから。しょうがないんでしょう?』
嘘をつくことの罪悪を僕に教えようとする父さんが、いつも背中を丸くする事を。
『…克哉』
父さんは約束を反古にしてしまう度にいつも背中を丸くする。
『しょうがない、は駄目なんだ。…それだけで理由になっちゃうから。父さん嫌なんだ…諦めてしまうみたいだから』
「だけど…だって」
今だってすべてを理解することは難しいけれど。
『諦めてしまうことも嘘と同じなんだ。決めた事を覆してしまう。…いつだって真実はひとつなんだ。まだ難しいかな。…いつかわかると思うけど、克哉』
わかってたのは、諦める事が自分への嘘に繋がると言う事も教えてくれた。
『…父さんは、お前達のこと忘れて無いからな』
次こそは真実を守り抜くと誓う為に、情けなさを心に誓うのだと父さんは背を丸めていたけれど。
『絶対に…どうでもいいからじゃないんだ』
僕だって、そうだった。
そんな姿勢をとらなくたって、父さんが好きだった。
『わかってるよ、父さん』
僕らとの些細な約束でも守ろうとする父さんを愛していた。
「………父さんの」
くしゃくしゃに笑った、笑顔が好きだった。
重そうに大事に抱かれた腕から見下ろす笑顔が、僕ら家族への愛情がけして偽りのものではないことを知らしめさせてくれたから。
「…………いえに………………………父さんの…………」
…そう思って、頑張ったら、自分を誉めてあげられるんじゃないかって思ってさ。
「…………………はいりたいんで…………………………」
だから、父さん、頑張ってるんだ…克哉達ともっと遊んであげたいけど。
「……………ぼくの、いえに………………………………」
父さんの声の残る門扉に手が届かないのがもどかしい。
「かえりたいんで…………はいりたいんで………………」
平静を装っても、力は入らずに入り口手前で押し戻されるから。
「おいおい。そのへんにしとけよ、あんまりやるとどこから叩かれるかわかんねえからな」
「全くガキは得だよな。被害者でなくても同情が買えるんだもんな。…大人は大変なんだよ少年」
「そうだよ、つまんないことで安定した生活棒に振ったりしちゃうからねえ。君のお父さんみたいに」
とげとげしい言葉の重なりがアーチのように僕を見送った。
治外法権の門扉を開けて、何歩目かでドアノブに手をかけて、止まり。
庭先の様相を見る。散らかったそこいらは、投げ入れられた缶やら石やらで埋め尽くされている。
「…………」
横目に無言で家に入った。
「ただいま」
やっぱり静かだ。
喧噪の激しい外界とは壁一枚でうってかわった。
「…………………」
ドアを開けるのも閉じるのも、僕にとっては大変で。どっちにしてもおなじことだ。
開くたびに居場所がかわるたびに、違う世界に身を置く。
オーバーかもしれないけど、あの日から僕にとっては常が別世界への入り口だ。
「‥」
ふっと目を上げた。
「にいちゃん」
とて、どてっと力任せの物音はさっきから気づいていた。
「‥ゼリー、食ったか?」
弟の。
「んー‥」
むにゃっとした。見たままならそんなふうな。
「なに?」
「あんまうまくない‥」
僕を見るときの甘ったるい笑顔。
とろけたほほと、いちいち僕をすがるような目と。
「なんだよ。食べたいっていうから買ったのに」
言葉ほどは粗暴ではない僕の声と。
「だってさ‥」
それにもじもじとする、けれども素直なかよわさと。
「にいちゃんのほうがいい」
手にはぐしゃっとつぶれた半円の容器を持っていた。
縁にはテレビヒーローの絵が描かれた蓋が裏返ってくるんとへばりついている。
「僕のだってゼリエースだろ」
インスタントのゼリー用粉末の名前を言って、わざと返す。
言われるとむにゃむにゃと口の端を泳がせて、違う言葉を探す。
「だって‥これ、つるつるな味しかしない」
「ゼリーだもん。つるつるだろ」
わざと返して困らせる。僕の遊びだ。
「だってにいちゃんのざらざらな味するもん。いちごだってみかんだってちゃんと味するもん」
おそらく一緒に入れた果物の事を言ってる。
みかんは缶詰を混ぜた。イチゴは甘く炊いて、ジャム状になりかけた固まりを入れた。
ちょっと入れすぎたのとインスタントの融通のなさとで、通常よりも柔らかくなってしまったけど。
「メロンはさすがに入れらんないけどね」
「でも白いの入ってた!」
「ミルク寒天?」
「そう!それ!いっぱい入ってたもん。つるつるだけじゃないの!」
擬音と抽象的な言葉の遊び。
それに一段落つくと、ようやっと、靴も脱がずに立ちつくしていたことに気づいた。
「‥食べたいの?」
「うん!」
言い当てると、にまにまと笑って僕の返事を待つ。
靴ひもを解く指を待ち遠しそうに見つめて。
「でも、今日はだめだよ」
「え‥だって」
汗ばんだ裸足の足跡が廊下に点々とある。
「自分のぶんは食べたんだから、おいしくなくっても今日はおしまい」
「‥‥ええ‥」
不服そうに見上げる、膨らませた頬と見比べる。
「それと、ご飯のあとのフルーツもなし」
「‥ええ!‥や‥だ!」
不満に腕をばたつかせる、不機嫌な、胸元をこする頭を軽くなぜた。
「固まるのに時間かかるし、入れればいいってもんじゃないんだぜ」
「え!」
衣替えが目前のブレザーを丸めて弟に手渡した。
「僕の部屋の引き出しわかるだろ?3段目にしまってあるからエプロンとってきて」
「う!うん!」
言い終わるか終わらないかで小さな足音は、二階への階段を猛ダッシュで駈けていった。
「上着もかけてくんだよ!」
「あい!」
吹き抜けごしに伝わる声に思わず笑ってネクタイを緩めた。
「…ったく。しょうがねえなあ…」
クレヨンやら怪獣人形が散らばる居間を通り、キッチンへ向かった。
「ごねれば何でも言う事きいてもらえると思ってんだからなあ。うちのチビッコギャングは…」
冷蔵庫の野菜室に手をかける。
「‥‥っても、あったっけかなあ、なんか‥」
昨日は達哉が「フェザーマンゼリー」をほしがったから、考えてなかった。
最悪。何でも、缶詰でも出てこないものか。……固いものに指が当たった。
「桃。助かった…………」
ラッキー。だったけど。
「………………………」
目を上げたのが悪かった。やっぱり、余計なことなんかすべきじゃない。
「…………ってるよ…」
余計ったって、些細なことだけど。
「…………にいちゃん!とってきた!」
息せききった足音に言葉を飲み込んだ。
「…………ああ」
「つくる?」
顔を見上げて笑ってる声に。
「………うん。でもな。…とりあえず居間片付けろ。あれじゃご飯たべれないぞ」
散らかったテーブル周りを指した。
「……え………。う………」
「返事はひとつ!」
「あい!」
エプロンを手渡すなり、駆け出していった。
「……なんてタイミングだよなァ…」
悪いことのあとにはいつも。
「……いきつくこともできないよ。…すこしは」
僕は。ひとつ飲み込んだ。
「…こっちのことも考えてくれよ」
こころのなかが漏れないようにしまい込む。そうしたら傷つくことはない。
「…ダダも!?ギャンゴも?」
ドアに鍵をかけるように。ううん、かけてる。
「…怪獣はぜんぶ!」
壁がなくても、至るところにドアはあるんだ。
「…ピグモンは?こいつ悪いやつじゃないよ!」
「散らばってるものはぜんぶ片付ける!」
しまい込んだものは漏れださない。
発することは、ぜんぶ、こころとはちがう事。
「………缶切り……ああ、ここ」
裏腹に缶を切る。
左手にはぐしゃぐしゃのメモ帳を握ったまま。…冷蔵庫のドアから引きちぎった。
「僕だってできるよ」
……しばらく、おばあちゃんのところにいます。
「わかってるよ」
……着替え持っていってあげて。(週に一度くらい)
「…………」
「にいちゃん。終わったー」
僕は。
「…………」
「にいちゃあん」
漏れださないようにできてる。
「達哉。やっぱり今日にしよう」
「え?」
思ったとおりのことじゃなく。
「おやつ。たべようか」
僕が言うと、達哉はびっくりしてたよ。
だって、その前なんか死にそうな顔してがっくりきてたからさあ。
「……ははっ。そうかそうか、達哉は甘いものに目がないからな」
面会室の壁は薄くって、向こうが伺えるのに、まるで色がないみたいに見える。
「うん。だから。大喜びしてた。おいしいって。あいつ何でもよろこぶからさ」
いつもそう思うんだけど、なんとなく言わないままでいる。
たぶん悲しませてしまう。間違いなくそんな気がするから。言って辛くなることなら、わかってるなら言わなくていいことだから、きっと。
「克哉が厳しいから、反動じゃないか?お前は母さんや俺よりも弟に厳しいんだからな」
「そんなことないけど」
だからさしあたって問題ない事を口ずさむ。
父さんとの会話だけでなく、最近はそんなことばかりが増えた。
「…母さんは元気か?」
「うん」
多分ね。
「学校にはちゃんと行くんだぞ。お前は勉強が第一だからな」
「うん」
…………。
「わかったよ。父さん」
おとといと、その前と同じ言葉。
「良い子にして。母さんにわがまま言うんじゃないぞ」
必ず交わされる決まり文句。
「うん」
そろそろ終わりなのかな。
後ろの人が、そわそわし始めてる。
「………ねえ、父さん」
「何だ?」
時計の針が、指してしまわないうちに。
「………ちがうんでしょう?」
行き止まりがこないうちに。
「……………………」
僕はじっと、唇を見る。
これも最近増えた事。
「とうさん」
父さんと向かい合う時。
僕は目を見て話さずに、唇の動きばかり見ていた。
顔は、見ていたけど。乾いた父さんの唇は色を無くしているように見えた。
それがいつからのことか、それもいつの間にか。わからないままだ。
「………………克哉」
「とうさん」
父さんの体はくぐもった声の先よりもはるかに大きいはずで。
「………………ありがとうな」
「?」
立ち上がった。その高さも、今では測れないままだ。見えないから。
「いつも、感謝している。差し入れありがとう」
唇を見る。ぱくぱくと、気のせいか声とあっていないような形をした、乾いた唇と。
「………………」
冷たくて、薄い壁。色の無い世界。…こんなとこにいるから。
「気をつけて帰りなさい。最近は物騒だからな。…俺が言えたことじゃないか」
唇はぱさぱさに乾いて、何をしても何を聞かれても、同じ事しか云えなくなるんだ。
「…………父さん………」
もれださないように、鍵をかけても。壁が薄くて向こうが見えるから。
「………うん……また、次ね」
僕は笑って頷いた。
目を合わせないで合い言葉に、応える僕の顔を見て父さんはどう思ったんだろうか。
「……………ああ」
だけど、やっぱり同じ声で父さんは応えた。
「お願いします」
すぐに後ろの、制服を着た人にぺこりと頭を下げて。一緒にその向こうのドアに消える。
「…あーあ…」
ちっとも薄くなくて固いドアがまた、僕を行き止まりにした。
父さんが帰らなくなってから、いくつかおぼえたことがある。
「……きょう、重かったなあ。…筋肉ついちゃったりして」
差し入れの荷物の重さに、腕が折れるかと思った。
大体が本だ。時間だけはあるから読みたいというようなことを云われたから、忘れないうちに持ってきた。あんなに読書家なんて知らなかった。
それに枕カバーが欲しいと云われた。
布団カバーもできれば欲しいと。自分用のが使えるんだそうだ。
「洗濯物かわいてるかなあ。…飛ばされてなきゃいいけど」
家では座布団を枕にすることもザラだった父さんが、そんなのほしがるなんて意外だった。
晩酌の後、寝始めると起こすのは僕の仕事だった。
父さんが横になると達哉が真似するから、って揺り起こすと達哉が歯磨きから戻ってきて、間一髪で寝室に送るってパターンがほとんどだった。
「肩こるってやつかなあ。…首いたくなってきた」
帰りは「宅下げ」が待っているだろうとおびえてたけど、父さんは何もいってなくって、案の定カラ手で帰れた。
持ち込んだものを返すことを「宅下げ」というらしい。…これも父さんのことで覚えたこと。
父さんは下着だとかカバーだとかもそれに加えている。それも面会が週一で済まない理由だ。
面会がなくても物は返してもらえるけど、せっかくきたのに会わないっていうのも変な気がした。
だけど本当のところは僕がしょっちゅう来るから頼むってことだけなのかも。
差し入れして宅下げして、その数が増えるごとに当然洗濯の回数は増える。
幼い弟もいるから、その量は尋常でなく、僕が家にいるときで洗濯機が止まってる時はないくらいだ。
「クリーニング屋やれるかも。アイロン選手権なんかあったら賞とれそう」
達哉を産んでから母さんはよく体調を崩すようになって。洗濯は結構手伝ったけど。
うちの階段は急で、しかもどこに弟のおもちゃが転がっているかわからないから。僕も何度も転びそうになった。
「湿布…あったっけ。薬箱最近開いてない」
だからだよ。肩が痛いから顔を上げれないんだ。
父さんの顔が見れないのはそういうことなんだ。
「……薬局……あの角……。…………………あ」
顔を上げられなくなって。目を見れなくなって。
「閉店してる……」
困るのはそういうことだけじゃない。
「うっそだ…。冗談……安かったのにな」
顔を覚えてもらって、おまけしてもらって。いろいろと助かった。
「………うそだろ……また、探さなきゃなんないじゃないか」
車道は危ないから自転車は極力避ける。
僕が危ない事なら尚更、小さい子には危ないから。
「ドラッグストアか…。あんまり、連れて行きたくないんだけどな」
便利なのは必ずしも良い事じゃない。
これも父さんが帰らなくなってから覚えたことだ。
「知恵ついて困るんだよな。…余計なもん、ほしがるから…あーあ…」
顔を上げられなくなって、周りが見づらくなると、困る事が多くなる。
父さんの顔が見れないのは、肩が痛いからだけじゃないんだ。
「また考えよ。……悩んでもしかたない」
頼る人がいないことに気付かされるから。
困ってることを気付かれて、またあとでどうしようもなく嫌気がさすんだ。
余計に肩も痛くなる…。
痛いからってへこんだって、どうにかなるもんでもないのに。
「あーあ」
父さんがいなくなってからわかったことはいくつかある。
それは宅下げと、差し入れと、洗濯物の量が増えたこと以外にも。
一つのことで困ると雪だるま式に不安が増える事、悩みたくてもその先にあるものが見えて考える訳にいかなくなること。…それと、肩がこってきて、ほかにもあちこち、痛くなる事。
そのほかにも。
「………あ!………5時!」
そうなんだ。
あっと云う間に時間が過ぎる。
「やべっ!お迎え!」
考える暇も悩むゆとりもない。
体を動かさなきゃ、一歩も前に進まないことに気付いた。
だから、走る。
「………ってっ!あた、たたたたっ………くっそ………」
走ってなくても気持ちだけでも。……飛んで行けたらどんなにいいか。
これも、僕が最近よく思う事。
「………こんばんわ。おばさん」
引き戸を開けると、さんまの匂いがムワッと鼻についた。
「………ああ。克哉くん。お父さん元気だった?」
「はい。…すいません。今日も達哉、ご迷惑かけて」
お迎え。母さんが頼んでいった預かり先……弟の。
年賀状でしか知らない名前だったはずの僕のおばさんという人は意外と近くに住んでいて、最近初めて会うことになった。
「いいよ〜。大変だもんねえ。…達哉ちゃん!お兄ちゃん来たよー!」
まだ学校に上がっていないのと、待機児童だから。
まさか家に置いていく訳にもいかないので、母さんが決めた金額を渡してお世話になっている。
封筒に包んでもお金のやりとりを見せるのは良くないと思うから、弟のいないところで渡しているけど。
「ごめん。待っただろう。今帰ろうな」
それでも少しバツが悪い。
「うん!」
生活をする中でお金というものがどこかでかかるってことは知ってても。
弟を迎えにくるたび嫌な気持ちになるのは、僕がまだこどもだからだろうか。
「よかったねえ。お兄ちゃん、昨日より1時間も来てくれるの遅かったからねえ」
「………すいません」
預かってもらってありがたいと思う。
「いいよ〜。大変だもんねえ」
悪気はないんだろう。
「………それでは失礼します」
「また明日ね〜」
だけど僕はあの人が苦手だった。
出会ったばかりだからだろうし、よく知りもしない人の事を悪くいうのは良くないってわかっているんだけど。
「何してあそんだ?」
「でんしゃごっこ!」
そう言い聞かせても、やっぱり好き嫌いというのは言葉ほど自由にならない。
「そっか…よかったな」
「うん!」
ううん。…言葉だって。
「…兄ちゃんはね、傷つけちゃったよ」
もしかしたらね。
「いたいの?いたかった?」
なんだってそうだ。
「…ちがうちがう。僕じゃないよ。…だから、どれだけ痛いかわからないんだ」
「……………」
どれだけ念を入れたって、そんなには自由になるものじゃない。
「どうしようか。達哉」
帰り道。弟の手を握り返して考えた。
「なにたべたい?スーパー、おかずだけ買って帰ろうか」
言いたいのはそんなことじゃないよ。
「たいやきー」
「なんでだよ。…冬になんないと無理だよ」
さっきは何となく、言ってしまったけど。どうせ意味なんかわかりっこないよね?
「おとうしゃん」
「……………なんだよ。だから食べ物だって」
わかりっこないよ。だっていつだって勝手なこと言う。
「おとうしゃんね、たいやきかってくれたの」
「…………………」
無いものねだりなだけだ。
「ここやけどしちゃったの。あちちって」
舌を出して。指で指して。
「…………………」
いつも困らせるようなことしか言わない。弟なんかそんなことばっかりなんだから。
「おとうしゃん、いつ帰ってくるのかなあ」
「…………………」
弟は、空を指差した。
「またたいやきかってくれるかなあ、聞こえるかなあ」
「うん」
会いたい時には空に向かえって、僕が言ったことをまだ信じてる。
「…………………」
本当に信じてるのか、僕に言ってるのか、わからない無邪気さが痛かった。
「閉店三十分前だって。急ぐよ、達哉」
だから何気ない出来事で濁してしまう。
「いそげいそげー」
無邪気な声と目はそらせなくて、ひとつも予想がつかないんだ。
飲み込むには返す言葉がどうしようもなくて、ごまかすことが多い。いけないことだ。
「…………そう。もう、寝ちゃったんだお母さん」
わかってるよ。嘘ついてるって。
「うん。元気。父さんも元気だった。うん。伝えて」
9時を廻った頃におばあさんに電話をしたけど、母さんは出てこなかった。
「ごめんなさい。夜遅くに。…ううん。いいんだ」
達哉はもう寝かせた。だから、僕もまた嘘をついてるんだ。
もしかしたらって思ったけど、なんとなく予想できていた。
一人でかけたのは達哉を横にして、母さんの声が聞けない現実を味わわせることに耐えられなかったから。
「おやすみなさい」
お母さん。
「……もう、わかっちゃったのかもしれないよ。ううん。わかんない。でも、鋭い事いうよ」
今日、言いたかった事。
返らない受話器。だけど戻せなかった。
「もっとましなこと言えばよかったかな。だけどさあ、嘘じゃなかったんだよ」
間はもっと開けてから話してくれてたっけ。
「僕にはあんなことしか言えなかったんだ」
忘れちゃったよ。だって昨日もその前も、母さんいなかったじゃないか。
「ヒーローだなんて、笑っちゃうよね。だってそれしかうかばなかったんだもん」
笑うところかな。わかんない。
ああ、黙っちゃうかな。結構無口かも。いや、それは父さんかな。
大人の声を浮かべると、担任の先生とか嫌いなおばさんとかが入り交じる。
うまく再現できないんだ。
「また明日…ね」
我慢しようと思ってるのに。不思議だね。
「………おかあさん」
僕の言葉も漏れだしてきてるよ。
漏れだすと、とまらない。
穴が開くのは外も内も、変わらないことだから。
「………。…………った」
極々小さなガラスの破片は、運動靴に入ると転んだはずみか悪意なんだか読み取れなくて不透明だ。
「どうした?…タイム測るぞー」
「……………」
外も。わからなくなる。
「周防?」
「………はい」
かすかな飛行機の轟音か、散歩してる犬の咆哮か、それとも内緒話の声か、区別がつかない。
「今いきます」
それでも知らない顔をしてるのは、なにもきみたちなんかのためじゃないよ。
「…………だっせえ」
くやしいきもちを死ぬ気で抑えて、我慢ためてるわけでもない。そこんとこ勘違いしないでよね。
「お前帰宅部やめたらどうだ。まだまだ伸びるだろう?今日は今ひとつだがな」
なにもだれかのためでもない。
「平均タイム、まだAですよね」
誰にもやらないよ、なにも。
「…ああ、お前なら問題ないが。本気出せばもっといくんだろう?…成績は大事だけどな。打ち込むことも大事だぞ。もったいない」
休める人ならできると思う。
「無理ですよ…そんなの」
体を十分に動かして、動けなくても誰かいるなら、そんな無茶もできるだろう。
「僕にはできません。もっと早くなんて」
夕刻の商店街はつかれるんだよ。
「できませんよ」
爪の先が割れていた。
血が少しにじんでた。靴下はもう駄目だろうけど、新品下ろさなくてよかった。
「…云うほど簡単じゃないって」
保健室で血止めしてもらって帰ろう。
「…こんばんわあ」
今日もおばさんの家だ。
「にいちゃん!」
珍しく達哉が早かった。
「………なんだ、今日は早いな」
「ねえねえ!これ!これ!」
ネックレスのように首に巻いている紐のようなものをぎゅうっとにぎって、万歳をするようにみせびらかしている。
「なんだ、いいものもらったなあ」
スーパーとかでよく見る笛ガムだ。小袋が繋がって紐みたいになってる。
いろんなフルーツの味が入ってて、どれもドーナツ状に穴が開いてる。唇で押さえるとピュウって音がする。僕の小さい頃にもあった。
「これ俺の!」
目で許しを求めてる。
いいか?って。食べていいか?って。可愛そうなくらいに、ひたすらに。
僕は彼の目の高さに合わせて、ガムと髪の毛を巻き込むようにクシャッと撫でた。
「わかったわかった。でも少しずつ食べるんだよ。おなか壊すから」
別に弟をいじめたい訳じゃない。
「うん!」
小さい子は放っとくと食べ過ぎて、夕飯を食べてくれなくなったり、下手をするとおなかを壊してしまう。…だからつい、キツくなる。
怒鳴りそうになるのを我慢して、何度も言って聞かせるのもとても根気が要る。
言いながらいつも考えた。弟が云う事聞かないのは、僕が親じゃないからでお兄ちゃんだから甘えていいと弟が思ってるからだろうって。
「あ!あ!あのね!あのね!いいって!にいちゃんいいっていったー!」
喜ぶ弟の後から聞こえる足音に考えた。…どんな礼を言えばいいのか。
ガムの値段はたかが知れてる。だけど買ってくれた相手を考えると素直によろこべなくって。
弟がせがんだのだとしたら、この後どんな嫌みを言われるのか。
「…克哉」
けれど降ってきた声は忘れかけていた声だった。
「………っ………かあさん」
ああ。懐かしい。
「ずいぶん、しつけちゃったのね。…達哉食べないのよ。お兄ちゃんに見せてからだー!って」
思ってたよりも一息にしゃべる人だったなあって。
「………あ、あ………は…………」
久しぶりにあったのに、そんなことばかり考えてたんだよ。
受話器のあの間じゃ、遅すぎたなあ。あんなんじゃ最後まで聞いてくれるかだってわかんない。
「………あ……はは。そんな……っ……ことないって………」
こわばってる。僕。どうしてだろ。
「痩せたわね………。食べてるの?」
「にいーちゃんね、ごはんと、かいじゅうーってどなるんだよー!……にーいちゃん、おへやかたづけろー!って」
何言っても、弟が何言ってるのか、よくわかんなかったり。
「ねえー?ねえー?きいてるのかー?にいいちゃーんー!」
ぺたぺた、弟が頬を触ってくるのにも動けずに、しばらくそうしていたみたいなんだ。
「…………心配かけたわね……克哉。怒ってる?」
「……………………………………。………ううん」
それでも僕はうれしかったんだ。
「母さんも。元気そうで。………よかったよ。ほっとした」
だってしらない大人ばかりなのって、やっぱり寂しいじゃない。
「……急いできたら………気が抜けちゃって……」
「…お前には悪い事をしたね。だけどね、母さんも心配だったのよ」
カウベルのついたドアが開くのが達哉には楽しくてしかたなかったようだ。
「わあ!…きゃっ!」
ゆったりとしたピアノ曲がかかる喫茶店の奥のボックス席を後ろ前に、プリンアラモードが来るまでの時間を落ち着きなくすごしている。
「いひひっ!うきゃっ!」
ドアが開くたびにシートにかくれる。そして、入った客の顔を伺う。やってることの意味はわからないけど、こどもの一人遊びってそんなもんだろう。
「………うん。母さん」
おとなしいとは言いがたいけど、年が年だから、多めに見てもらえる範囲だろう。
はしゃぎすぎるところはあるけど、食事をするときだけは年頃よりもきれいに食べる方だと思うから。
「一緒に行きたかったけど、お前どうしても嫌だっていいはるんだからね。お兄ちゃんはしっかりしてるから、それでもって思ったけど、やっぱり不安だったわ」
母さんの言葉よりもそうした事の方が気にかかるのは、いつもの癖だからか。
「………うん」
それとも例の予想範囲内で、母さんの言葉がきまりきっているからか。
「親がいないなんて、普通じゃないもの。達哉は小さいし、お前だってまだ中学生なんだし。だけど母さん耐えられなかったの。まさかお父さんがあんなことになるなんて思わなかったもの」
母さんじゃなくたってそう思うんだろう。
僕だって、自分のことじゃなければおかしいと思うよ。家があるのに、親がいないなんてね。
だけどそんなことは今更の話で。
「…いいよ。母さん………。」
母さんとの会話が嫌なわけでも、達哉の行動が目に余る訳でもないのだけれど、目の前の事に集中できなかった。
「僕学校あるし、勉強遅れちゃうもん」
どうして、家に帰らないの。母さん。
「克哉」
言いたい事は決まってる。だけど言葉は胸にしまおうって。
「おばさん親切だし。あとね、父さんの面会も二日に一回は僕行ってるんだ」
余計な事ばかり漏れだすのに、どうしてこんな時ばっかりでてこないんだろう。
「警察のひとってそんなに悪くないね。…そりゃそうだよね、父さんだって警察官だもん。なにいってんだろ僕」
言いたい事はいっぱいあるのに。
「克哉」
どうして肝心なことは、でてこないんだろう。後ずさる。
「かあさん」
…どうして、僕らの家に帰ってこないんですか。
「おにいちゃん。カチャカチャなってるのー。いけないんだ」
紅茶のミルクが溶けてくれない。
ずっと飲まずにスプーンを廻していたから、入れるのが冷えてからになって…分裂して。
うまくとけきれないで。僕のこころみたい。
「ああ、そうだな」
何言いたいのかわからない。あんなに母さんに会いたかったのに。
「達哉はえらいな。きれいに食べて、…うさぎさんのお耳までペロリだ」
飾りのリンゴをほおばりながら、ニコニコ頷いている今はカウベルよりもデザートに夢中でいる。
母さんは、こっちを見て…どんな顔してるのかわからない。
さっきから声ばかり聞いてた。目を合わせて笑っていられる自信なんかない。
「そうそう、いいものを持ってきたのよ。おばあちゃんが達哉にあげて、って」
そういうと母さんはハンドバッグから封筒を取り出した。
「わあ!」
動物園のチケットだった。
「なかなか家族では行けなかったもんね。達哉、ライオンさん好きよね?」
「きりんさんもすき!ぞうさんはもっとすき!」
チケットと僕の顔を見比べてはしゃいでいる。
「………これ、母さん」
「おばあちゃんとおじいちゃんが連れていってくれるって。克哉」
僕らの町の動物園じゃない。
「………だって…そんな急に言われても」
母さんはどうして、自信たっぷりなんだろう。
「克哉は、おばあちゃんのおうちは嫌い?」
父さんはいつも背中を丸めてた。
「きらいじゃないよ」
「動物園は嫌だった?もっと怖い乗り物のある遊園地の方がよかったかしらね」
行きたいけど、行けないかもしれないって。そんな気持ちがあったから。
「そんなんじゃないってば」
だけどけっして僕らの事を忘れた訳じゃなくって、一緒にいたいけど行けない事情があるからって。
僕はその約束が果たされるのを待っていたけど、破られるのは嫌じゃなかった。
すまなそうに笑うけど、その分だけ、僕らの事が大切だって誓ってくれるから。
「でも、さ………どうして、こんな急なの?」
だから良い子にして。ぼくら。
「克哉」
父さん戻るの待ってるんだ。そう決めたんだよ。なのにさ。
「そんな急じゃなくても、いつだって、行けるでしょ…?」
どうしてそんな、急ぐの?
「………………」
こわばるよ。
良い子にしてなきゃいけないのに。
「いつだって、いいじゃん…?」
顔がこわばる。
だってカップがカチャカチャ言って、一口も飲んでない。
ずっとスプーンを廻して、カチャカチャ、ぐるぐると円を描く黒縁を僕はずっと見ている。
「夏休みになったら、天気もいいし、僕も遊びたいし、みんなで、そのとき、みんなでいこうよ」
やっぱり顔を上げれない。
母さんの顔も言葉も、想像がついてるんだ。
聞き返す必要なんかないくらいに、答えなんか待たなくてもいいくらいに。
「みんなで!みんなで!」
だけど『仕方ない』は駄目だといった。あきらめるのはいけないと言った。
父さんが言った言葉を僕らは信じてる。
「……みんなで行こうよ………」
些細なことでも僕らの夢だ。
もしかしたら。今度こそ、約束を守ってもらえて。
「…克哉は、お父さんのほうが好きなの?」
そうしたら僕はたぶん、また遠い日まで希望をつなげる。
「………かあさん」
また叶わない日々が続いたとしてもきっと。
「お母さんね、ずっとそのことで考えていたの」
………………………………………………………………………………………
どんなことがあったって、日が昇って夜がきて、一日が終わるんだ。どんな時も。
「珍しいなあ。着替え一番乗りだ」
風呂上がり。
いつもは裸のまま廊下を走り回って困らせるのに今日だけは自分から体を拭いて、今パジャマに着替えている。
「動物園、動物園!」
いつもツイてないね。
僕も喜べるなら、どんなに楽しかったか知れないのに。
「………そうだね」
結局母さんは家に来ようとはしなかった。
夕食だけでも一緒に食べようと思ったら今度は場所を変えてレストランに連れて行かれた。
達哉は嬉しそうだったけど、僕は冷蔵庫の中ばかり想像した。
おなかは空いていたけど詰め込めるものなら何でも良いってかんじで、その時の会話も相づちを打っていただけのような気がする。
適当に頼んだステーキの付け合わせのインゲンを見て、おととい買ったのを思い出して後悔した。
夕食中は近況ばかりでまともな会話はしなかったけど、それでも母さんの言葉は鮮明に覚えている。
「…そうだったね、動物園。さっき母さんが連れてってくれるって言ってたもんな」
…今度のことだけが原因じゃないの。お母さんね、ずっと考えてたの。
「達哉は動物園いったことなかったもんな。初めてだもんなあ」
克哉はお父さんが好きよね。お父さんも克哉達のこと大好きよ。
だけどお母さんは、そうじゃなくなったの。
「うん!はじめて!でもねしってるよ!ぞうさんがいるの!きりんさんがいるの!」
お母さんは、待っていられないのよ。
「ライオンさんもね!みんなみんないるの!うさぎさんのお耳は白くて、お目目が真っ赤なの!」
達哉が疲れて眠った時にタクシーの中で告げられた。
「そうだね。本物のうさぎさんは達哉のお口には入らないかもな。シャリシャリってあんな良い音しないなあ、きっと」
僕も母さんが好きだよ。父さんも好きだよ。だけどそんなの順番なんかつけられないよ。
父さんも母さんも大好きだ。それじゃいけないの?
「たべれにゃいんだよぉ!シャリシャリじゃなくてぴょんぴょんだよ。ぴょんぴょんって飛ぶんだ!」
父さんは、母さんによろしくっていってた。
母さんは元気かっていってた。
「………………」
家の前までくると、僕らを降ろすと車を走らせてしまった。
もう自分の家じゃないってばかりに。他人の家のように、何事もなかったように。
そうみえたのは夜で顔が暗かったのと、僕がずっと目を合わせなかったからだろうか。
「ねえ、いついくの?」
別れ際に告げられた事も。
「え?……ああ、もうちょっとな」
引き延ばそうと答えた言葉も、まったく同じ。
「今度お母さん迎えにくるって」
…あんまりお母さんを困らせないで頂戴。
「わあ!わあ!」
「いつなんだろうね。兄ちゃんもわかんないや」
母さんがあんな事をいっていた意味を、帰ってきてからやっとわかったんだ。家に戻らなかった理由も。
「いつだろねー」
母さんの荷物は何もなかった。だからそれに気付かなかった僕にも怒っているんだ。
父さんを好きじゃなくなった母さんみたいに、僕にも父さんを嫌いになってほしいって、望むのはそんなことかな。
「わかんないね」
どうして僕はそんなことばっかり気付くんだろう。
「もうちょっとしたら?」
そして肝心なことばかりどうして気付かないんだろう。
「うん。もうちょっとしたら」
言っちゃいけないことを戒めようと口を閉めても、都合悪いところで漏れてばっかりいる。
「……そしたら、おとうしゃんも、いっしょにいけるかなあ」
「……………………」
うまく口が動かないで。喜ぶ言葉はわかってるのに、それすらも飲み込んで伝えられないでいる。
「いま、いしょがしいの?もうちょっとだったらいしょがしくなくなる?」
「……………………」
ごめんね。嘘ばかりついてるにいちゃんをゆるして。
「そうだね。…おしごと。知ってるだろう。前にいったよね。父さん、忙しいから」
僕は卑怯だから、父さんみたいに嘘のことを嘘だって言えない。
「だから会えないけど、もうちょっとしたら会えるよ。達哉、すごくいいこだもん」
こんなに僕の事を信じて、疑いもしない弟の顔を歪ませる事なんかできないんです。
「うん!お空にね、いうとつたわるんだよ」
僕は臆病だから。怖くって仕方が無い。
「そうだよ。だからみんなが平和になったら、お父さんきっと帰ってくるよ…そしたら一緒だ」
いつばれるか、って。弟が、いつまで信じていてくれるのか。
目の前の人たちが何をいってるのか、それがどういう意味なのか。
「おとうしゃん、パトロール?」
そんなことが気になって仕方ないから、僕はあなたが抱きあげてくれた頃より悪い子になってるんでしょう。
「…そうだよ。今頃、海のむこうかなあ。このへんはみんな平和だからね」
だけど嘘でも。現実よりも暖かいなら。
「あ。あの雲。切れてるだろう。…お父さん、あっちに行ったかもな」
夢見ていられる間、優しさを信じられるなら、そのほうがずっと。
「だから、聞こえてたよ。今度は、達哉といっしょに動物園いくって」
背伸ばしの。踏み台の足と、調理台にゆったりとほおづえをつく僕と。
「ほんとう!?」
あざむいた楽しさに人心地つく罪悪を、どうか赦してください。
「……。ああ、ほんとう」
僕らは空の向こうに、夢を描きました。
「父さんね、なんだって知ってるんだから。…そうだろ?」
弟が泣かないように。
弟が、前を向いていられるように。
弟が、僕と同じに父さんを愛していられるように。憧れていられるように。
「お父さん、今忙しいだけなんだ。みんなのために、がんばってるんだ」
あの時だってそう言った。
けっして忘れてるんじゃ無い事を伝えたかった。父さんが僕らを見捨てた訳じゃ無い事を伝えたかった。あの時に。
『…そんなに泣いていたら、父さんお仕事できなくなっちゃうよ。父さんお空でぼくらのこと見てるんだから』
むずかる達哉に、そう言った。
達哉は父さんにどこにも連れてってもらったことがないから。
「父さんは正義の味方だからお空を飛んでパトロールしてるんだ。困ってる人がいなくなるように」
弟は約束を破られるたびに大泣きした。
父さんが自分のことを嫌いなんだって思い込んで。
予定が延びた末に行けなくなった遊園地の日、水筒をぶらさげたまま延々と泣いていた。
僕がなだめすかしても、どんな言葉をかけてもずっと。父さんが出て行った門扉の前でずっと。
『だから』
僕は黙っていられなかったんだ。
『達哉がそんなふうに泣いてばっかりいたら、父さんはパトロールできないよ』
父さんが背を向ける理由を。僕は知っていたから。
『…困ってる人を助けるために父さんがんばってるんだから』
だから、嘘をつきました。唯一、弟が耳を貸してくれる言葉に託して。
『ほんとう?』
僕は嘘をつきました。
「ほんとうだよ」
だけどそれは嘘とよぶには憚られるほど、僕の真実に迫っていて。それでも父さんが嫌うことには変わりなかったんです。
それでも僕は自信たっぷりに。
「ほんとうだよ」
弟に嘘をつきました。でも弟はその日から本当に泣かなくなったんです。
そのかわり、ことあるごとに、父さんを呼んだ。空を見上げて。
「とうしゃん」
空の上には父さんがいるって、信じて。
「どうぶつえん、いけるんだ」
…嘘をつくのはいけないことでも。だますのはいけなくても。
「うん。だから、ちょっとまっててな」
だけど、僕は夢見たかった。
「うん!」
現実をそのまま正直に受け入れるほど僕には勇気がなかったから。
だから嘘をつきました。いけないことですか?それなら、やっぱり僕は卑怯者なんでしょう。
どんな我慢も、目の前のお菓子やおもちゃのほうが弟には鮮明にうつる。僕が必死にもがいても、弟には何もわからないのだから。
だけど、そんな僕がただ一つ、夢中にさせられることがあったのなら。それが嘘なら、罪悪でしょうか。
弟がどんなに喜んでくれたとしても、欺いてしまったなら、それは罪に他ならないのでしょうか。
「ねえ、おとうしゃんは、ぞうさんみたいにおおきいのかなあ」
弟は。僕を見上げて尋ねます。忘れかけた父の面影をたどって。
「……ねえ、おおきい?」
だから、僕は答えます。弟の心にうまく描けるように。
「…そうだよ父さんおっきくて力持ちなんだ」
そうだよ、大きな体で。
『………早くしないと、克哉は大人になってしまうものな』
いつだって僕らを守る為に一生懸命で。
「ぞうさんなんかより、ずっとずっと」
強い力で僕を抱き上げてくれた。
けして忘れてはいないことを刻み付けて、僕らを思ってる事を。誰よりも強く重く、思っている事を伝えようとして、一生懸命で。
「ねえ、おとうさんはライオンみたいに強いのかなあ…せいぎのみかただもん、つよいよね?」
そうだよ、強い。
どんな時だって、僕らを抱きしめたい気持ちを慈しみに変えて、僕らと同じくらいに愛して。守って。父さんはそれを誇りにしていたんだ。ライオンよりも気高いこころで。
「…達哉、父さんはぞうさんなんか目じゃないくらい大きくって、ライオンなんかものともしないくらい強くって、すごいんだよ」
だから、いつか鉄格子なんかやぶって迎えにきてくれる。
そうしたら僕のいったことも少しは本当になって。…ならなくても、僕はそのとき本当に夢みたいに。幸せになれるだろう。
父さんが、いてくれて。母さんも。みんないっしょに。
「僕らは父さんの子供だから、とってもラッキーなんだ。だって正義の味方の子供なんて他にいないじゃないか」
そう思ったら我慢できるかな。
「この世界の誰も。僕らよりラッキーなこどもなんかいないんだ」
これはもちろん誰にも言わないよ。…きっと。
「だから父さんはがんばってるんだ。正義の味方なんだから」
父さんはきっと帰ってくる。
「僕らはラッキーなんだ」
近くなったらきっと、あのドアを開けて。
空にも、ドアなんかあるのかな。そう考えた。待っている間、どうしてか思った。
今日は手提げ袋が軽い。気のせいじゃなくて。いつもより欲しいものが少なかった。父さんのリクエストが。
「次の方」
もう………帰るのに。
昨日も、その前も。
「………おっかしいな」
なんてことはないんだけど。
「悪いね。今日は定員なんだよ」
偶然が重なった。
「………………はあ………」
僕は何日も門前払いされた。
もちろんそんなつもりはないのだろうけれども。結局は同じ事だ。
「受刑者の面接は1日1回って決まってるんだ。規則は、知っているね?」
面会の回数だ。
1回までって決まってるなら僕にはどうしようもない。
「毎日来てくれるのを断るのは、申し訳ないんだけど。…今日はもう閉め切ったんだよ」
「はあ」
毎日、帰宅部の特権を生かしてもどうがんばっても午後の3時すぎくらいじゃないと滑り込めない。差し入れの受付時間ギリギリに入って、面会して…。今まで間に合っていた方が不思議なくらいだったのかもしれないけど。
学校にはちゃんといく。それも約束したことだから。
「……次回。よろしくおねがいします」
だけど、毎日毎日誰が………。
「………………」
「どうしたね?」
一瞬、ありえない顔が浮かんだ。
「いえ…………」
まさかね。
「…………失礼します」
考えすぎてるだけだよ。
「母さん、なんてね…」
そんなわけないよな。きっと考えすぎてるだけだ。
「…………いったっ!」
ぼんやりしてるから。
「ばくはーつ!」
僕の頭にも、そこかしこも、ばらばらにほどけたブロックのかけらだらけだ。
「………った………。こらっ!」
不注意が多くなって。
「がんせきおとしだよ!」
「…………あ…………」
弟の相手も散漫になってる。
「……なんだっけ、どこまでだっけ。攻撃、これ……なに?」
いつの間に相手してたんだ。記憶にないなあ。
「えええー。さっきゆったよう!」
手には怪獣人形を持っている。僕のは、ウルトラマンか。
僕にはちっともわからない、ダジャレのような名前と技の名前をまくしたてて。やっきになっている。気付かなかった。いつの間に、いつからこうしてたんだろ。…それにしても。
「ごめんごめん。そんなこといわないでさ。兄ちゃんに教えてよ」
「うーんー…しょうがないなあ…もっかいだけだよ」
昔から興味がないからなんだろうけど、僕にはやっぱりこの手の遊びは理解できない。なのに弟はすらすらと答える。年代の違いだろうか。
「いくぞ!からてチョップ!……にいちゃんっ!すぺしうむこうせん!」
…どうやったら覚えられるのかな。
将来は僕なんかよりずっと成績がよくなるんじゃないか。
とんでもない公式がすらすら解けたりとか。すごい発明なんかするんじゃないか。
「………あはっ」
いろいろ想像してみたけど、どんなすごいことをやってのけても頭の中の達哉はちっとも育っていなくて、博士帽をかぶって付け髭を足しただけの小さな弟が杖をもってふんぞりかえっている。
そんな姿しか思い浮かばなくて、思わず吹き出した。こんな感じ。
「いくぞお!がんせきおとしっ!この攻撃がかわせるかあ!?」
さっきはつい怒鳴った、ブロックがあちこちに散らばるのもどうでもよかった。
やっぱり散漫気味なのかもしれない。よけいなことを考え過ぎなのか。
「えっと……光線!」
「すぺしうむだよ!」
だから珍しく、僕はどうでもいいことばっかり、思ったんだ。
「…………あれ………」
昨日は何を作ったか、おぼえてない。
「………おかしい……」
魚を焼いたのかな。達哉が小骨を口の中に刺して大騒ぎだった。それだけは覚えているけど。
「………濡れてる……」
だからかもしれない。
机の中がおかしいと思うのも。そう思い返して確認しても、昨日とは様子がちがいすぎた。
ノートというノートがすべて、僕の思った通りではない。
「………ぎゃははは!だからよお!」
耳をつんざく不快な笑い声に。
「……………………」
本能が思考よりも先に目を向けていた。
「……………。………、ンでよお!」
多分。
「……………」
目でわかるって、良く言う。
やっぱり何か隠してるとよくわかるんだ。
それがやましい分だけ特に。
「……あのさあ」
何人かの集団でも。あのアーチよりは怖くないと思う。
「なんだよ」
「これさあ、臭くてしょうがないんだけど」
ノートを全部放り投げたつもりが、叩き付けてしまった。
「…………………え………」
「どうしたのあいつ」
「なにキレてんの」
最近特に有名になった僕のことだ。クラスの中でなら尚更なんだろう。
「…なんのことだよ…俺しらねえ」
目が泳いでいる。
知ってるよ。見え透いた嘘つかなくても。
「まさか。とぼけなくったっていいよ」
ノートは、もうどうにもできなかった。
すべてのページがべとついているんだ。
糊付けされて開こうとするとページ同士がはりついたまま破けてしまいそうだったので僕は修復を諦めた。
「だって今どき匂い付きの糊使ってるのって君だけじゃない。女子じゃあるまいし」
夕べの余韻なのだろう。
考えもしないで行動に出た。思った事そのままためらうことなく、相手の机から缶ペンを引っ張りだして中身を開けていた。
「こないだ自慢してたやつに特徴が似てるもの。…いちごの匂い…ほら、同じだ」
「………………」
僕はわざと肩を竦めて盛大にため息をついた。
本当に怒った時って逆に冷静になるものなんだと思う。
「当たり?」
心の中は煮えたぎってどうしようもないのに、得意げな顔で相手の反応を見ている自分がいる。
「………………」
「あーあ、せっかくがんばって教科書終わらせたのにな」
予習のノートだった。それは本当の話。
「でもしょうがないね。きみ、勉強得意じゃないんだもんね」
「………………」
彼とは仲が悪かった訳でも、僕が特段嫌われていたという理由ではないと思う。
少なくとも、僕の認識ではそうだ。
「僕コピーとる習慣ないから。あ、別に君だけにいってるんじゃないよ。代わりがないって言ってるだけで」
だけどあの時から、僕の待遇は一変した。
きっかけなんて考えるのもばからしい事。どこにだって転がってる。
「君みたいに友達多ければ別だけどね。頼んだ最後が僕だったんでしょ?おとといさあ」
僕らみたいな年頃は、頭の隅ではわかっていても。
「なんのことだよ」
「いいじゃない。言ったって。」
イジメの口実を探してる。
「だって三日前、僕にこのノート貸してくれって電話かけてきたくらいだもん」
それは僕にも理解できる。実行しなくたって、誰もが持ってる本能の一部なんだ。
「…………………………!」
だから僕も復讐という名目で彼を責め立てているのかもしれなかった。
普段から好きじゃなかった。
声も、顔も、タイミングも、やることなすこと目障りだった。
「…まさかこんなことになるとは思わなかったよ、こんなんだったら断らなきゃよかったなあ」
「…………………うっ……」
だから僕も、これを口実に当たり散らしているのかもしれなかった。…せせら笑う。
自分の気持ちよりもオーバーな表現で口にだして、しらじらとわざとらしく顔に出した。
「まさか貸さないってだけで逆ギレされるなんて思わないじゃん、普通」
…普段何されても反応しない僕がだよ。笑っちゃうよね。
『泣いてすむなら〜』なんて、お決まりのことわざで彼を冷ややかに見ていたんだと思う。
「………っく、……ひくっ………あ……うわああ…………」
図星だったのか濡れ衣だったのか、反論されないまま盛大に泣かれた。
「……………………」
このまま席に戻ったら、クールな俳優みたいかな。
殺し屋みたいなのを思い浮かべて、仕事が終わったスナイパーみたいに。
「おい」
だけどそれは叶わなかった。
「何泣かしてんだよ。バカじゃねえの」
僕に言ったのか。どっちなのかわからない言葉で遮られた。
泣かしたのは僕だけど、泣いてる彼の方がみっともなくって情けないから。
「………泣くなよ。おい」
僕の方かな。
「だいじょーぶー?」
…影が走る。
僕はさながら川にささった杭のようだ。流れに乗れない。
「ひっでーの。泣かしちゃったよ。最悪」
呼ばれたのも。バカなのも………僕。
泣いてる方を取り囲んでる。
窓際で眺める女の子達は、無言で僕をにらんでいる。演技だったのが、本当に冷たく映ってたのかな。
「大体よお、糊同じだからって証拠あンのかよ」
「証拠って…ヤだなあ」
十分証拠じゃないか。原因だって、さっき言ったのにな。
「だって僕は刑事の息子だよ」
「………………………」
教室中が静まり返った。
あれ以来誰も触れなかった事だ。
どんな嫌がらせがあってもそれだけは面と向かって云われなかった。
常套文句の「情け」ってやつか?…どんな奴でもそれだけは…っていう。
笑わせる。意味がないよ。
「傷つく」ってことで。「かわいそう」?冗談じゃない。
わかってるよ。優しさなんだろ。…僕もそう思いたかった。
「僕さあ。刑事の息子なんだ。遺伝かな。似たんだよきっと」
だけどわかんないんだ。飲み込みすぎてわからなくなった。
誰が何を思ってるのか、どういうつもりで言ってくるのか、なにもかもわからなくなった。
だからこっちから言ってやるよ。わかりやすいように。
「父さんに似て鼻が利くんだよ、誰が犯人かっていうのくらいならすぐにわかる」
誇らしげに、偉そうに、ホームズを気取ったりして。
…あれは探偵だけど、本当に捕まえるのは警察の仕事だから。
「犯人は、お前だー!……なんてね!」
頭が働かないのは本当だ。
だって、怒ってるはずがおかしくって、腹の中がピクピクいってる。
無責任に吐き出すのって気持ちいいんだ。
とっても気分がいい。寝不足で頭が働かないのに、少なくとも昨日やおとといよりはすごくいい気分だ。
「………………」
静かなのに、ちがう空気。
わかってるよ。だって僕は刑事の息子なんだ。
君たちの考えてる事なんか全部お見通しなんだよ。何が言いたいのかだって。
「………オ…」
誰かが言った。
「オショクケイカンのくせに」
「…………!」
お見通しでも、少し痛い。
「オショクケイカンの息子のくせに偉そうな事いってんじゃねえよ!」
分かってても。
「前からきにいらねンだよ、フカシやがって」
想像してるのと、実際言われるのじゃ全然違う。
本心なんだろ?痛いのは、本気でそう思ってるからだ。
「…オショクケイカンなんだろ?税金ドロボー」
それが本心なんだ。目が血走ってる。
「大丈夫ー?」
「かわいそー」
そっち側にいかない僕を。
あんなふうに、泣いてしまえば同情してくれるんだろうな。
父さんのことがなくたって気に入らない僕を、「かわいそう」だって括って。
「…何が刑事だよ、悪徳刑事じゃん」
「マジさいてー」
「頭よかったら何言ったっていいわけ?」
次々に響いてくる。
「たいしたことないのにね」
「何様なのあいつ」
建て前から解放された人間の顔と言うのは、なんて生き生きとしているのだろう。
僕が切り開いた言葉で自身の偏見を確信に変えて。自分の目に狂いはなかったと誇らし気に。
「いこ。つぎ実験室だよ」
連帯感で通じ合う。
僕と言う排除すべき敵を囲むことで手を繋いで。
「……たいしたことないってさ……。どんだけ暇だと思われてるんだろ」
閑散とした教室には僕一人。
障害はなくても封じ込められたような形でぐるりと机が取り巻いている。
さっきの流れが意志をもったような…物理的にはそれ以外何も、影響ないんだけど。
「帰宅部でも忙しいんだけどなあ…きみたちの話のはんぶんもわかんないのにさ」
つながれない手は、放り込んで。いつもだ。
「野菜切った手で集中すんの、けっこう難しいよ」
絆創膏だらけの手をそっと見る。
水仕事で切れてしまった指先は塞がる暇なく、最近では素手で鉛筆が持てなくなった。
「……ってそんなのわかんないか。だから通じないんだ」
小さい子は待っててくれないから、時間ばっかり過ぎて行く。
宿題するのは弟が寝た後だ。本当なら春から予備校にいくはずだったのにな。
「仕方ないよ。だっていつまでかわからないんだもん」
父さんが出てくるまで。出てきてからだって仕事があるのかわからない。それくらいわかる。
「……言わなきゃよかったかな」
相手のない会話の方が沁みない。最近そう思う。
うわあああん!うわああああん!
「………すみません。……弟には言って聞かせます」
泣いてる。どっちも。…ああ、なんで泣き止んでくれないんだろ。
「そうですね。…その通りです。すみませんでした。…ほら、達哉」
弟はズボンの端を握って離さない。
「………………」
顔を真っ赤にして、鼻水をすすりながら悔しそうに床をにらんでいる。
「あやまれ。ほら。としゆき君とおばさんにあやまりなさい。達哉」
ひっく、ひくっ、…たつやくんが、おれのことたたいたあ。
「あやまろう。ほらっ、…すいませんって」
「やだっ!」
僕の後ろに隠れてしまった。
制服の腰のあたりが濡れていくので分かる。身を震わせて泣いている。
「……すいません。言って聞かせます。…ごめんね、としゆき君」
子供同士の喧嘩だ。
きっかけは些細で、おもちゃの貸した貸さないとか、その程度のことだ。
どんな局面だったか見ていない僕には説明される内容を信じるほかはないが、達哉の怪獣人形を相手の子供がとったのが原因らしい。
断りはいれたようなのだが、達哉が頑として聞き入れなかった。
『これ、俺のレッドキングだもん!にいちゃんのウルトラだもん!かえせよ!かえせよ!俺のなんだからあ!』
相手は僕の知らない家族の子供で、おばさんの家に良く来る子のようだった。
「………達哉、ほらっ、……いいかげん頭さげなさい!」
「いー!やだあっ!」
僕は弟を引きはがして前に進ませて、頭を掴んでお辞儀をさせた。
自発的にはするはずがない。悪いと思ってない人間が詫びるはずがないのは大人も子供も一緒だから。
「……ごめんなさい、って!あやまりなさい達哉!」
だからと言って謝らなくていいわけがない。
事の正否は、こういった局面で作用しないことが多いから。
「……あのねえ、克哉くん」
誰がどっちが悪いとか、何が原因とか、そういうことで起きる事なんか逆に少ないんだ。
その時の成り行きや状況、…力関係でそんなものいくらでも変化する。
「……こんなことは言いたくないんだけどね」
ここ数ヶ月、そんなものが嫌というほど見えてきた。
「……はい」
僕らの住む、この社会では事の素のまま物事がさばかれることはありえない。
「……やっぱりね…集団生活って必要だと思うのよ」
誰でも人より数多くを望むから、誰もが均等に納得するなんてことも望めるはずはない。
「達哉君も、保育所とかね、経験してればそんなにはね」
妥協して、納得いかない事でも。小さなひとかけらを探して一息つく。
誰もが誰もの幸せを望めないこの世界では、それが生きて行くための箍だ。
生から外れないための、自分をこの社会に食い込ませていくための。必要なことなんだ。
「…………はい」
だから、わかったふうにしよう。それが何よりだって気付いた。
僕は黙ったままでいる。
ドラマか映画かなにかみたいに、決めゼリフがあるなら良かったんだけど。
「としゆき君は年長さんだから良かったけど、もっと小さい子ならああはいかないのよ」
年長さん?
「おうちにいるのが悪いわけじゃないけど」
なんですか。それ。…僕分かりません。説明してくれませんか。
「…………………」
僕の分かる言葉で、説明してくれませんか。
『年長さん』なんて言葉、うちにはないんです。
無知ですみません。だから教えてくれませんか。僕には分からないんです。
「みんなの経験してること、やってないってのはねえ」
達哉は待機児童なんです。だからそんな言葉、うちにはないんです。
弟が悪かったのは謝ります。
だけど、そんな一括りに。他の人がやってる事が当たり前と決めつけないでください。
「…………………」
弟は行きたくても行けなかったんだ。
「…………………」
泣いて、足を投げている。
僕から離れて戸棚の影で顔を隠して項垂れている。
「………………はい」
弟が、みんなと同じに入れたなら、あんたなんかに任せたりしない。
「………………はい」
遠くから悔しそうに、僕を見上げて何か言いたそうにしている、弟を放っておいて。
「………すみません」
僕はあんたに詫びてまで。
「………以後気をつけます」
悔しそうに歯噛みしている、弟の話を聞かずに謝ったりしない。
「達哉にも言って聞かせますから」
僕らの社会は誰にも均等の満足は訪れない。
けれど下げ渡される物も、失う物も均一だ。それが平等なんだろう。
非対称の、多い少ないに関わらず同じように降り注ぐ。それが平等なんだろう。
均等ではなく均一だから、僕は頭を下げる事、何をおいても納得する事を公使する。
「……なあ。達哉……明日はとしゆき君にあやまらなきゃな」
家路。
弟は石ころを蹴りだすように少しずつ、僕の後ろから離れて歩く。
「…………………にいちゃん………と……そ……も…」
反省しているのか、唇をモゴモゴさせて、やっぱり何か言いたそうにしている。
「………………」
だけど、僕はそれを無視した。
「兄ちゃんのことはいいんだ。だけど、どんな理由があったって人の事殴るのはよくない。…誰に原因があってもね」
この世の中は均一だよ。ある平等に満ちてるから。
「………………」
「さあ。もういいだろ?達哉が一人でできないんなら、兄ちゃんが一緒に謝ってやるよ」
しょげた弟へ振り返る。
歩調をゆるめて、弟の速さに合わせて手を取った。
「何食べようか。…昨日のシャケ、ほぐしてグラタンにしようかなあ」
歩きながらいつものように語りかける。
「………………おれ……………」
僕の主義主張のもとに。
すぎたことは、いやなことは、考えても仕方がないことは。…やっぱりなにもしようがないんだ。
「…熱いけどうまいぞ。達哉好きだよなグラタン。ほうれん草も入れようか」
震える手指が伝導して伝える悔しさを手のひらで感じ取っても、どうすることも。
「…………おれ、にいちゃんとあそびたかったんだ……もん」
「達哉」
僕の心を見透かしたんだろうか。
「………あやまるなんて、いってないもん!」
左手が外れた。力任せに腕全体で剥がす。
徒競走のピストルを打ち込まれた衝撃に似た、衝動で弟は走り出した。
「おれ、わるくないもん!」
「……………っ」
目で追った。
…大丈夫。この先は毎日通る歩道で、危ない事はないはずだ。
「とうさん」
僕は弟のいうことより、進む先が気になって、ホッと胸を撫で下ろす。
弟が自分を憎んだかも、嫌ったかもしれないってことよりも、あいつが無事に帰ったかどうかのほうが気になるんだ。
「………やっぱ痛い……。あったかな、買い置き……絆創膏」
引きはがされた瞬間に、ズルッと指の絆創膏が外れた。
じくじくと腫れている傷口は確かに痛いんだけど。
「いったあ………」
父さん。僕の心は。
あきらめることも仕方がないことも、二種類あるように思える。
父さんが言った事が信じられないわけじゃないけど、みんなの選んでいる方も、間違いじゃないような気がしている。
「湿布も。忘れてた。……どうしようかな。痛くないと忘れるんだよね、こういうの…」
持っている人間も、足らない人間にも、均一の明日が来る。
平等な明日にも、やっぱり僕は口をつぐむのかな。
突き放された手は、差し伸べる前よりも冷たいね。
「…………見つけた」
でもね、突き放しても弟の目は、隠れながらも僕を見てるんだよ。
「走ったって、入れないんだろ……待ってな」
家の前でうずくまって。
どんなに泣いても、むずかっても最後には僕を頼ってこっちを見てる。
「にいちゃん」
僕を見て。
「きょうはギャンゴやるんだよ」
さっき濡らした制服のパンツを握ってゆらす。
「…………ああ」
ここにいる。
俺はここにいるよ。…見捨てないでって言ってるように見えるのは、それは僕の気持ちか?
「ほんとに!?」
揺らす手で、キーホルダーが出せない右手はそれと関係なしにこわばっている。
「いいよ」
こんな目されたら、たまんないじゃないか。
「だってね!だってね!むつかしいんだよ!だってねえ!のうはかいじゅうなんだよ!」
自分を見つけてくれた嬉しさ。
そんなふうに思うのは、僕も遠い昔の頃に似たようなことがあったのだろう。
あの日の自分と重ねてみてる。
わがままを言った後のこころは、バツが悪くてどうしようもなかった。
話しかけてくれないかぎり。
「いいってば」
だからお前の言葉は、その根底にあるんだろ。
「…鍵出せないから。こらこら…もう、ゆらすなよ」
頷くこころがどこにあるのか。
二分された言葉の意味のどちらを掴めば良いのか。僕におしえてくれないか。
「…達哉教えてくれるんだろ?」
不満なんじゃないんだ。
『………………………バーカ!』
些細なことなんだ。
『アハハハハハハハハ!ハハ!』
気にしても仕方ない事を帳消しにしようとしても、最後の刺が抜けない。
刺さるたびに、針の先まで気をつける注意がいかなくなってしまっただけ。
「…………電話代……もったいねえだろ……」
悪戯電話。気にしてやる理由も、ゆとりもないんだけど。
「風向きが変わったら、誰がこうなるんだろ」
…漠然と浮かぶ。見えない話し相手の顔は磨りガラスで見え隠れして。
「明日は、持って行けるかな」
たまった包みも鉄のかたまりみたいに見える。
「……………半分くらいかな」
強い風はしばらく吹きそうにない。
やっと父さんにあえたけど、無駄だったのかな。
「昨日、やっと読み終えたよ」
父さんは、本のはなしばかりするようになった。
…二日にいっぺんが三日に、四日に、いまでは五日にいっぺんの面会になってる。
それがどうしてなのか説明なんかつかない。
僕がこなくなったのも説明なんかできない。
それなのにひとつも尋ねることなんかなく、いつのまにか本の話をする。
…確か、今は小説の単行本はすべて読み終えて、弟が読むような子供向けの本しかなかったはずだ。欲しい本をたずねたのに、父さんは家にあるものがいいといった。
「名前のとこ、シールはってたろ。…あれは達哉か?」
「え………みてない。かも」
どうしてこんなはなしばっかりなの。
「最近はったような色だったからな。達哉だろう。あれ、意外と気難しいかもな」
「なんで?…そうおもうの」
ぼくがしたいのはこんなことじゃない。
「名前のとこ、かくしてあったぞ。…おさがりなの、はずかしいんじゃないのか」
もっと違う事。話そうよ、父さん。
「そんな…だって絵本だよ。そんなわけ」
「ないか?」
父さんは楽しそうに話をする。それでも。僕には。
「………さあ」
楽しそうに話すのを嬉しく思えない。場所柄なのか。
「そっか…克哉がわからないんじゃ、どうしようもないなあ」
「……………」
父さん。
「…………そうかあ……そうだなあ」
父さん。どこを見てるの。
「大きくなったらなあ、困らせるかもしれないな。…気難しいぞ達哉は。誰に似たんだろうなあ…」
久しぶりに、父さんの目を見た。
「……………」
目に映ってるのは。
「大きくなったらなあ…どんなになるのかな」
「とうさん」
窓枠。光。
黒い目にちかちかと、光るものがあって。全部は見て取れない。
「…………………」
なにを。見てるんだよ。…とうさん。
「父さん」
いまなら…いってくれる?
僕、まちくたびれたよ。
「克哉」
「とうさん」
唇を開けようとしたのに。悟られてるみたいに先に出られた。
「こないだ持ってきてくれたやつな。あれ、しおりずらしたからな。お前読み途中だったら注意してくれよ」
「…………え?」
どうして?そうじゃないでしょ?
「今日な、返すのいっぱいあるから帰るとき重いぞ。注意してな。踏切とか、足とられるだろ」
違う話ばっかり。どうでもいいことばっかり。
そんなのじゃなく、違うこと話そうよ。
きいて。ぼくね。とうさんに話したい事があるんだ。
「………………………………」
友達とうまくいかない。どうしたらいいかな?
達哉が心配ばっかりかける。…ぼくどうしたらいい?
「………いつも悪いな。克哉」
だけどそれらは禁じてきた言葉。…ぼくに何が云えるんだろう。
父さんのほうがつらいから。父さんには愚痴を言っちゃ駄目だって。
…だから元気なのはとてもいいことなのに。
だけど、そんな顔ばかり見てると悲しくなってくる。
僕はちっとも、楽しくなんかないよ。
「とうさん」
つらいのは一緒だって信じてたんだよ。
だから我慢してたんだ。…でも、気遣ってもくれないなら。
「…………。どうした?」
…僕だけ取り残されてる気がする。
「………………っ」
いろんなひとも、ものも、たくさん通り過ぎて行ったよ。
「………それなら……っ」
弟が悲しむのも、こころで感じられない。
ともだちを泣かせても、つらいと思えない。
僕は自分のことしか考えられなくなってる。
「どうしてこんなとこいるのさ………っ」
震える。
「…………克哉」
手が。震えてる。
頭まで熱くて、僕は、父さんの笑顔に苛立を思ったから。
「いつまでこんなとこ、いる気なんだよお……」
見上げた目からぽつりとこぼれる。僕はたぶん泣いてるんだ。
「克哉」
どうして?
「ねええ…」
ずっと思ってたよ。
ずっとわからなかった。
どうして、父さんは、こんなところにいるんだよ。
「………やってないんでしょ………?」
父さんの目を久しぶりにみた。
戸惑って、困惑して。
困ることならどうして、捕まってしまったの?
こんな子供に聞かれて困ることなら、どうして、…何もいってくれないの?
どうして、こんなところに。
「……答えてよ」
困った形は目にとどまらず、口もぼんやりこわばっていた。
「………………」
相変わらず、色のない唇はぱさぱさに乾いていて、やっぱり言葉と噛み合わない動きを僕に示した。
「………すまないな」
わからないよ。
「……ねえっ………」
真実はどこにあるの?
噛み合わない口で、父さんが。ポツリポツリと話す言葉は、僕には聞き取れても理解できなかった。
わかりきっているのは父さんが、いつも通りに答えた言葉。
「…………みんなを。頼んだぞ。克哉」
壁が薄くてこちらからでも伺える壁の向こうの影に消えていってしまうことだけ。
「………とうさん……っ!」
そして僕の答えは?
しとしと。降るって、弟が笑う。
あたらしい雨ガッパと長靴がうれしくて、くるくると回った。
いつでも元気なのはうらやましい。
なんでもよろこぶのは。…良い事だと思うけど。今の僕には疎ましい。
とうさん、どうして。
「……………ちっくしょう……………」
応えてくれなかったの。
雨は。やんでくれない。
「…………………、るっせ……………」
3日前に降り出した雨はやまずに停滞して、汚れ物を増やした。
何もやる気がなく、どうでもよかったけど。身に付いた習慣は払えそうにない。
洗濯機が止まる傍から放り込んで、片っ端から干していた。
乾燥機なんてものはないから、廊下も部屋もかまわずに洗濯物を干していた。今もまだ。
「…………3日………。………足りるかな……いろいろつめたから…まだ……………」
習慣はそれだけじゃない。
「!………糞っ!」
思いがけず卓上のカレンダーを手にしていた。気付いて投げ付ける。
「…………知らないよ!どうして、僕がめんどうみなきゃいけないんだ!」
本音じゃない。
本気じゃなくても、汚い言葉は心を通さず投げ付けてしまう。
「…………あんなの。知らないよ。……あんなの、あんなひと……!」
裏切り者。
「…………………………」
3日前の。ぼくの形だ。
僕は父さんを罵った。
聞いた事も考えた事もないはずの汚さに。…どうして僕が、いいこに見えるのか。
だから、苛立っているのかも知れなかった。
「やってないんでしょ?」
「克哉」
僕は。
「とうさんやってないくせに!」
込み上げて来たから。
父さんの優しさが臆病に思えて。…真実はどこにあるのかも。
「やってないくせにどうしてうそつくんだよお!」
我慢した言葉は噴き出してくる。
「どうして、ごまかしてばっかりなんだよお!」
とめどもない。濾過されないままにのどから、声になる前の音が涌きだして止まらなくなる。
「ほんとのこといってよ父さん!父さん悪くなんかないんだよね!だってとうさん、毎日仕事しかしてなかったじゃないかあ!」
止めれなかった。止めたら最後、またどうでもいい話ばっかりされる。
僕が聞きたいのは笑い話じゃない。
僕が見たいのは、目先の笑顔じゃない。
「…………………克哉………………」
みんなのために、はたらいてたんでしょう。
「ほんとはちがうんだ!だから父さんこんなとこ、いるひつようないんだ!やってないって言ってよ父さん!…帰ろうよ、帰ろうよとうさん!ぼく、こんなとこもういやだ!」
だから、帰れないって。父さん確かにそういったじゃないか。
「……差し入れつらかったか?……学校と一緒じゃたいへんだもんな」
聞きたいのはそんな言葉なんかじゃない。
「そんなこと…っ!いってないじゃないかあ!」
はやくかえってきてよ。父さん。
「毎日じゃなくてもいいんだぞ。本当に。…なあ。克哉。大変だよなあ」
僕がまんしたよ。
いいたくなんかなかったんだ。ほんとうはこんなふうに父さんをせめたくなんかない。
「とうさんっ!」
かあさんがでてっちゃった。
かえってきてくれない。
「………やって、ないって………!」
ともだちもね。勝手な事云うよ。
ぼくじゃ無理なんだ。達哉だっていうこときかない。
「やってないって。……いってよ……ねえ」
みんなかってなことばっかりいうんだ。…いや、そうじゃない。
「ここは家じゃないぞ…お前が勝手を言う場所じゃない…わかるな。克哉」
荒げた声をたしなめる言葉も。
「勝手なのは…どっちなんだよう…っ!」
どうして僕らばっかりなんだよ。
どうして、僕らばっかり、…父さんに会えないんだよ。
「おとうちゃん。いつかえってくるの?」
達哉が待ってるんだ。
頼むから。僕をこれ以上、嘘つきにしないでください。
「………いいこに、してたらって……」
僕は弟に。約束したんだよ。
父さんは正義の味方だから、帰れないって。だから。
「………おとうしゃん、強いのかなあ」
今日も信じて待ってる。空を見上げる。
「いったんだ……ぼくう………」
弟の目が。僕を見ていてくれるうちに。
「………おねがいだからさあ………」
…僕をこれ以上嘘つきにしないでください。
「克哉……感謝してる……お前は……いつだって、優しい子だった」
そんな言葉いらないから。
「待っててくれた。父さんのこと、赦してくれた。…ぜんぶ、感謝してる…でもな、……もういいんだ。………だって父さん、克哉との約束守れなくなった。…嘘をつくのはいけないって、とうさん言ったのにな」
感謝なんか。なにもかもが。
「……………っ」
父さんの言葉は耳を通って。でも頭で理解できなかった。
だから父さんが何を言ってくれたか、……僕には理解できなかったんだ。
「…………………」
思い出したくない。でも、意味が分からないのにあの時のことは僕の胸のなかから離れないから。
「…………………」
日曜日は面会のない日。
だから昨日にでも差し入れにいけばよかったと頭の隅では思うけど。
「あんなひとしらない。……あんなの。ぼくは、あんなひとしらないもん……」
嘘だって。言ってくれないかぎり。
「…………っ………うるさいっ!………何度も、何度もさあ」
電話のベルだ。
ずうっと鳴っていた。
でも最近じゃ出るのは億劫で、母さんにはこっちから必要な時だけかけるって言ってしまったくらいだ。
「………………はい。………もしもしっ!」
…スオウサンノオタクデスカ。……………オカアサンハ、イラッシャルカナ?
「っ!……今は、いません。……どちら様でしょうか」
…アア。コレハシツレイシマシタ。……ワタシハ……………。……………所の……。
「……………………え……………」
聞き返す事もなく。母に告げると答えて切った。
最近の僕の家ではめずらしく、いたずら電話ではなかった。
「………かあさん?…………うん。ぼく」
通信販売の案内でも、教材の営業でもなかった。
「…ぼくは大丈夫。……かあさんは、大丈夫?……あのね、折り返しかけるって伝えた。番号はね……」
誰かからくる電話を母につなぐのは久しぶりだった。
そんなことでも懐かしい。そんな事をこんな時にどうして考えるのか、それもわからないけどこのごろの僕にはおかしいことばかりおこるから。
「……ぼくもいくよ。…明日行くって伝えたから。…ううん。確認したいんだ。心配しないで」
心の中で嘘だと。何遍もつぶやいた。
おかしいって。いやなタイミングだって、そんなことのろってみたりもして。
「…………うそばっかりだ」
だって信じられるかよ。
「…………どう信じたら良いんだよ」
父さんが自殺した。首つり自殺だって。そんなの普通子供には言わないよね。
なのに言われたのか、聞き出したのか、それもおぼえてない。
「!…………達哉」
我に返って見渡した。
「いけえー!しゅわっちー!」
テレビに夢中だったことが、せめてもの救いだ。
テレビドラマみたいに。物事がおこるから。
頭の中は真っ白なのにやたらと鮮明に覚えてるんだ。
「父さんの仕事は、みんなを守ることなんだ。…がんばって、やってきたよ。…でも、そうじゃなくなってしまった。…とうさん、平和を守らなかった。お前たちの社会を乱してしまった」
うなだれた言葉は。本当のことだ。
意味がわからなくても、父さんはおそらく本当の事を僕に告げた。
「みんなを守るのを放棄してしまったんだ。…自分のために、やってしまった。…だって父さんには克哉も、達哉も、母さんも。……自分のことより大事だったから」
「…………なに、………言ってるの…………」
だけど僕には認められなかった。
意味はわからなくても、悲しいことを言われた気がした。
悲しい事。…僕が望まない事。
「………だからな、罰は受けなくちゃならない。…どんな考えでやったとしても。…どんな些細なことだったとしても。約束を守れなかったら務めは果たさなきゃならない。……たとえ、この手でやらなかったことでもな」
やさしく語る唇はやっぱりぱさぱさに乾いていた。
それでも嘘ついてないってわかる。父さんが僕に背中を丸めて語りかけている事。
「…………わかんないよ、ぜんぜん……僕にはむずかしいもん……ねええ……」
謝る時のあの姿勢が、僕には残酷に思えた。
人は愚かだ。あんなに求めていたことにいざ直面すると尻込みしてしまう。
「やったとか、やらないとか。そういう事じゃないんだ。そんなのは関係ない」
あの時の僕がそうだった。父さんを追いつめたつもりが、絶対に聞きたくない意味合いの言葉を引き出してしまったのだから。
「なあ。克哉。父さんの仕事は…みんなを守る事だ。…その父さんが、みんなを守れなかったら」
意味はわからなくても。
「いやだ。父さん。……そんなの、やだよ」
僕は怖かった。
「………父さんが、やったことと、なにひとつ。変わらないんだよ」
父さんは微笑んでいたから。
僕をほめる時と同じ顔で、優しい目をして笑ったから。
「…………………っそだ……」
嘘だ。
「しんじない。…そんなのしんじるもんかあっ!」
父さん、やってないっていってよ。
帰れなくなったとしても。僕はずっと待ってる。
母さんが待ってなくても、僕と達哉だけはずっと待ってる。
…だからほんとうのこと言って。…やってないって。
「正義の味方だって!いってたじゃないかあ!」
だって父さんはヒーローだって。
みんなのために仕事してるから帰れないんだって、達哉は信じてるんだ。
どうか弟のためだけにでも、僕に違うっていってください。
「………克哉」
何もいえなくなる前に。
「とうさんはうそつきだ!うそばっかりついて!うそつき!うそつき!いつもいつもいつも!」
どうかこの口を塞いで。
いいたくないことを。勝手に吹き出す悪い口です。
「いいこだな。お前は。………父さん、駄目な父さんだよな」
どっちを信じたらいいのか、考えられなくなる前に。
「お前との約束、結局なにひとつ守ってやれなかった。…だから、当たり前だなあ…でも父さんな、お前に感謝してる。…お前たちのところに、帰る時が、とうさんはうれしかった。…約束まもってやれなかったのに、父さんばっかり良い目をみてたんだ。…酬いなんだろうな」
僕は罵っていたんだろう。
父さんの声を聞かずに、嘘だと思いたくて。嘘だと、言ってほしくて。
だけど時間はきてしまう。
制服を着たおじさんが父さんの横に歩み寄る。…また肩をたたき、ゆらして。
「………母さんに、よろしくな。克哉。…達哉の事も。……頼む。克哉」
約束の、合い言葉。
僕は昨日まで頷いて。仕方なしに笑ってみせたけど。
「また逃げるのかよ!ぼくにばっかりおしつけて!…ぼくにばっかりっ!…ぼくに…ばっかりっ!」
ほんとはちっとも、そんな言葉聞きたくなかったよ。
「にげんのかよ!…そうやってっ!ぜんぶおしつけて!うそばっかりついて!」
僕のくちは野放図に、吐くだけの機械みたいに罵詈雑言を叩き付ける。
なのに薄くて冷たい壁の向こうは、やっぱり色がなくて、父さんはいつもと変わらないんだ。
笑って僕を見つめている。目を細めて。
…僕ひどい事ばっかりいうよ。だから、怒って。…もう笑わないで。
「とうさんのうそつきっ!」
叫んだ。口の端から。
今日は、見た事がない。
「みんなを。頼む。……克哉」
僕に向かって敬礼をした。
「……………………っ!」
父さんのそんな姿は。今まで見た事もなく。
…僕は言葉を失った。一瞬だけ、父さんの姿が今と違って見えたから。
「…………………………」
制服を着た、凛々しい警察官。
祝典の時にだけ遠目で見たことがある。…父さんがとても誇らしく思えた。
「……………っ………う……」
だけどすぐに掻き消えた。
囚人服を着た警官……?…そんなのどこにもいないじゃないか。
「………うらぎりものっ!」
思い出してよ。僕に言ったこと。
「………うらぎりもの!」
嘘だって言ってよ。僕に告げた事。
「父さんのうらぎりものぉっ!」
ほんとはね、こんなこといいたくなかったんだ。いいたかったのはこんなことじゃないんだ。
「……うらぎりもの……っ………とうさんの……うらぎりもの……っ」
父さん。僕きいてほしかっただけだよ。
ただ、一言だけ。言いたかったことがあるんだ。
「……………ちっくしょお…………」
………父さん…、…ぼく…つかれたよ…。
「…母は、あとからくるそうなので。僕がかわりに」
職員はやれやれと、面倒臭そうな顔をした。
「いいけど、あまり気持ちのいいものじゃないよ。おそらく君の知っているお父さんとは違う顔だろうから」
霊安室と言う場所の。銀色の台に白い布で覆われた中に。
「……………………」
珍しく無口な父さんがいた。
生前に行なわれた懲罰の証なのか、それとも自ら命を絶った…解放の代償なのか。
いずれにせよ醜く腫れ上がった目蓋と頬と、唇。
「……………………」
「申し訳ないけどね、それが真実だよ。まぎれもない君の父さんだ」
父さんが横たわっている。
元の顔のニ倍以上に膨れ上がった顔はとても醜くて、あの凛々しかった面影は微塵も無い。
にこやかに微笑んだ口元は淋しそうに、悲しそうに。固くひき結んだままに。
…声立てて笑う時の。大きく震えていた喉にも…面影はなく青黒い痣が。
おそらく解放される時にかけた紐の跡。
それが絡まった蛇のように禍々しく、傷跡全体が僕を嘲笑っているように思える。
「…間違い無く君の父さんだ。そう見えなくてもね」
「…………っ」
こんこんとした。石つぶのようなものが喉に堪る。
おそらく何か言いたいのに、何も言葉がでてこない。
「大人だってなかなか直視できるものじゃないからね。…安らかに眠ったのじゃないかぎり恐ろしい形相になっているから」
職員には黙したままの僕が怯えたように見えたのだろうか。
「…2人に」
やっとでてきたのは。
「父さんと、…2人だけにしてもらえませんか」
どもってしまった。一言だけ。
「ちょっとだけでいいんです…5分でもいいですから…2人だけに、してください」
高い窓からは光が差し込んでいる。
たゆたった光線が優しく顔を撫ぜたせいか、少し優しい顔を見せたような。
それともやっと、怖い人がいなくなったからなのか。
「……もう。だれもいないよ」
父さんは静かに横たわっている。
「怖く無かった?」
おそらく苦悩の果てに、解放される事を選んだ父さん。
「…怖くなかったんだ…」
静かに横たわる父さんの背中はぴんとはったままだ。
「…後悔も、してないんでしょ」
あなたは僕らとの約束を破る度に申し訳無さそうに背中を丸めていたから。
そんなあなたがこんなにまっすぐ背筋を伸ばしているんだもの。
「…してないよねえ…」
後悔なんか。
思わず目に入った、僕を嘲笑う青い痣に指を滑らせる。
「…すごく、痛そうだ。…痛いよね。きっと…怖くなくっても」
どこから始まっているのかわからないけれど、考えてもそんなことは意味もない。
考えたとしても父さんは黙ったまま、あんなに逢いたがっていた僕ににこりともせずに横たわっているのだから。
何となしにランダムに走った痣を線路のように指を走らせる。
「…………苦しいよね…痛く無くても」
何と無しに走らせた指が途中でつっかかる。
「…あれ…なんか、ひっかかってる……のど仏…じゃないのに」
顎の下の、比較的浅い所が不自然に膨れ上がっている。
「おかしいなあ。…のど仏は、ちゃんとあるのに」
そこからまっすぐ上った唇は。
さっきまではひき結んであったように、そんな風に見えたのに。良く見ると少し開いている。
父さんの、軽く開いた口の端から…何か。紙切れのようなものがはみ出ている。
「…なんだろ、…ね」
走らせていた指を顎に上らせて今度は指全体で。
軽く力を込めて、はみだしている物が破れないように気をつけて口の端から。
「………これ………、」
人さし指を差し入れて、かきあげて、引き上げて。
「…………なに…、なん」
一枚引き上げるつもりがこびりついていたのか数枚、ティッシュを引っ張り出す時の要領で一緒に引き出された。
「………これ……な………に。……………っ」
色とりどりの、ところどころ唾液でとけたような、紙の固まり。
「…………………………っ」
よみうりランド優待券、東映まんがまつり招待券、ディズニーランド入場券…。
「…………とうさん」
聞き覚えのある名前がついた固まり。
どれも父さんが僕らを連れて行こうとした、娯楽施設の名前ばかりだ。
「…なんで、こんなの…口に………………っ、…」
そして、まだ口の中に挟まっているものがある。
「……………」
それも指でかき出して上げる。
また親指と中指で摘まみ上げて、両手で静かに支えあげると。
「……………とうさん…………………っ」
……198×. 10.10。
「……こんなの、とうさん…こんなのさあ」
聞き覚えの有る日付。これは達哉が生まれて間もなくして。
「………とうさん……こんなの」
やっととれた休みの日に。
写真屋に頼んだとは別に、ボーナスで買った一眼レフで撮った。
「………こんなのっ………とうさん……」
懐かしい日の家族写真。
…母さんは嫁入りの時にもってきた着物を小袖に直して、恥ずかしそうに。
達哉は珍しく泣かないで、おくるみの中ですやすやと眠っている。
「…………とうさん……」
僕は生まれて初めてネクタイを締めた。
父さんに教えられながら、初めて自分でネクタイを締めて。
『………なかなかいっちょまえに似合うじゃ無いか』
終始上機嫌だった父さんの、さらに嬉しそうな声がすっかり楽しくて。
「………こんなの、父さん……こんなのさあ」
思わず歯を見せてしまうのを、父さんの厚い手の平が優しく牽制した。
『克哉、男はな、ちょっと微笑むくらいが格好いいんだぞ』
おどけて囁いて、ニカッと笑いながら親指を立てたのがさらに可笑しくて。
…そんな笑いに震えそうな僕の肩を父さんの手が支えた、懐かしい、ある日の。
「とらないよ父さん…っ」
遠い幸せを収めた家族写真。
「…こんなの……っ」
その向こうにみんな笑っている。僕が、達哉が、父さんが、母さんが。…みんながいる。
僕の行きたかった場所だ。父さんの戻りたかった場所だ。
「誰も、取らないよ…」
やっぱり忘れてなかったんだね。…だからかな。笑ってたの。
「おかしいと思ったんだ」
めざすところにいけるところに。過去に還ろうとして?
だからあんなにうれしそうだったの?
僕はあなたを見なかったけど、あなたの前にはもう僕はいなかったんだね。
「…大丈夫かい?」
気付くと後ろに職員が立っていた。
「……………はい」
急いで、曇ったレンズを噴いた。
立ち去る僕に、職員は、遺留品のすべてと手続の書類をあとから訪れた母に渡したと告げた。
「…………………」
僕はぼんやりとからだの覚えている方向に歩いていた。そんなふうに記憶している。
「……………暑いなあ」
いつか約束した夏は、海に行こうってカレンダーを指差した。
最新の特急列車に乗りたがった僕に、財布を覗く真似をして母さんにおこられていた。
『…冗談でもよくないわ。克哉が不安がってるじゃないの』
お腹がすっかり大きくなった母が、僕に麦茶を差し出して優しく頬を撫ぜてくれた。
『…怒ったか、克哉?』
心配そうに覗き込んで、父さんは。
僕は母さんが怒った理由もわからずに、いけないことを言ったかと考えて、コップに口をつけて。
『…こども相手なんだから。もう少しかんがえてくれなきゃ』
冗談だとわかった瞬間、父さんにVサインを投げた。
『じゃあ、おとうとがうまれたら、みんなでいこうよ!』
いつのことだったのか。だけどあれから果たされていない。
待ちくたびれたのは僕だけじゃなく、父さん達もそうだったのかな。
「…へへ。…………みんな、おんなじだ………」
すすり上げるかわりに、笑ってしまったのは、多分思いだしたから。
「おんなじなんだよね……そうだよ……」
でも、父さん。あなたの行くところに僕らはいないよ。
それとも見えるところには、ほんとうに帰る場所がなくなったの?
………ドアが見えない。
そりゃそうか。どこかに行こうとしなきゃ必要じゃないから。
だから僕には見えないのかな。…捜せないのかな。
わからない。行こうとしたのは、たしか一人じゃなかったのに。
行こうとしたのも、どこでもよかった。
たしか身近にあったはずでいつのまにやら放り出された、逃げ水のように遠のいていく。
みんながみんな、持っているのに。持ってないのが悪いみたいな。
………いいや。どこにもいけないんだもの。
僕はたぶん、ここにいるよ。そんな気がするんだ。
朝は早く訪れて、弔問の声がする。
「…………………………………」
いろんな声がまざりあって良く分からない。
ときどき事務的なあいさつがまざってくるのは、母さんがあちこち走り回っているからで。
「………………」
扇風機はお客用に持っていかれた。
なにか手伝おうかと頭で思うものの体が動こうとしなかった。
今日は学校を休んだのに制服を着ている。ネクタイの締め付けにうんざりしながら、ベッド脇の布団を見た。
「…………っ…………」
弟が眠っている。
いつもなら起こす時間だけど、今日はなんとなくそのままだ。
「…………8時………」
親戚だけの密葬で、お棺はすぐに発つと。背広姿の人たちが母に説明するのを昨日聞いた。
おそらく家から一番近くに父は運ばれるんだろう。
「………………………」
正体が分かる時に、どんなヒーローもいなくなる。
仮面をつけてれば剥ぎ取られて、変身すればいつかは目撃されてしまう。
「…………んっにゃ……すぺしうむ………」
ヒーローが死ぬ時は必ず僕らの期待が裏切られた時だ。人のこころが英雄を殺す。
ひとりひとりは何もしなくても、何もできなくても、誰かを傷つけることはできる。
ヒーローが強いのは、ぼくらよりも強いと思われているから。
ぼくらと同じとわかってしまえば、だれしもひとは、英雄を忘れてしまうんだろ?
「……………達哉………」
英雄がいたことも。英雄を信じていたことも。
いつか訪れると信じて、夢を見ていたことすらも捨てて、空を見上げることすらも忘れ。
希望に胸踊らすことすらも忘れて……。
「……………達哉」
僕らは。
「起きなさい。……もう八時だよ」
夢を見ていたい。寝ても覚めても同じ夢を。
「………っに……いちゃん……?……ねっむいよ………」
うとうととする弟の寝巻を剥ぎ取って、Tシャツの上から僕のパーカーをかぶせた。
「……出かけよう。達哉」
時間がない。
「え………?どこに?」
たぶんもうじき母さんがくる。下に挨拶に来いと言われる。
…なにも知らない弟が、なにかを感じ取る前に、最後の嘘を。…僕にください。
「いいとこだよ」
眠い目を擦る弟を背負い、僕は足早に家を後にした。
堂々と出ていくと意外と簡単に抜けられるもので、まだ誰も僕らの行方を知らない。
「階段だよ。俺歩く。」
アラヤ神社の参道も、中腹にくると些細な揺れでバランスを崩しそうになる。
「いいよ……兄ちゃんがおぶうから。…達哉、うしろはみるんじゃないぞ」
何度目かの申し出の辞退で何かを悟ったのか、弟はそれきり黙って僕の背に掴まっていた。
「コケが悪いんだな。…これは新しくなるよな。ここ、上りづらいもんなあ」
息が切れて、目前には終点と、その向こうの社の裏側が見える。
裏側といっても、概観は表側とそう大差ないが鳥居が古く、一見周りの木々と見分けがつかない。色褪せた入り口は。
「……このへんで降りようか」
社の端には防壁のない、切り出した崖が迫り出している。
「わあ……」
知らずに進めば落ちてしまいそうな、すいこまれそうな高さに、僕達はいる。
「すごいだろ。…ほうら遠く。あんな向こうに海があるんだ…見えるか?」
聞こえているのかいないのか、達哉は口をあけたまま、僕の手を握っていた。
「ほら、右側。みてごらん。テレビ局だよ…タワー、大きいだろ」
「…………………」
黙ってうなずく。呆然と見つめる弟の顔。
「あの向こう、なんだろな。…山かな。…その向こう、なにが、あるかなあ」
僕はその隣、風の当たる吹きぐちにわからないよう立っている。
風が当たらない理由を彼が知らずにすむように。…だけど、それは僕のエゴでしょうか。
「…………………」
とうさん、どこにいますか?
「…………にいちゃん」
ふと弟の声が僕を向いた。
手は繋いでいる。意識もこちらに。…ただ、目はどこも見ていなかった。
「俺……わるいこなんでしょう」
「………どうした」
急なことばはいつだって返答に迷うけれど。
「いいこだって、にいちゃんはいうけど。おれ悪い子なんだって、…わがままなんだって」
横顔を危うく感じたことはあっても、日々の苛立ちに歯噛みしても。お前はそこにいただけだ。
「………おばさんが。…………言われたのか?」
頷きも否定もしなかった。
似たような声は誰かに囁かれるのだろう。羨むくらいに楽しそうな表情の影でもお前にも訪れていたのか。
「困った子だって。…おれ、わるいこなんだよね…。…にいちゃんだって、そうおもう?」
日が陰る。
「……なに……言って……」
風は当たらないのに。
「だから、とうさん、俺のとこにきてくれないのかな。俺、とうさん見えないんだ」
無邪気な口で投げる言葉は、もぎとるように投げてきて、ときおり降ってはこころに痛い。
「…………………………」
黙っていると思慮深く、なにか張り詰めたような目は。
子供というだけで否定される、ただここにいるだけなのに。
「前はみえたようなきがするの。にいちゃんがあそこにいるって、おしえてくれたときだけ」
丸みを失いつつある、小枝のような指は、空を指す。
「にいちゃんが教えてくれると見えるのに、俺見えない。だからにいちゃんといっしょにいれば見えるとおもって。遊んでいるの、よくないって、わるいこだって」
核心をつく指はいつも突然で困らせる。
だけど、僕には、なにができる?
「良い子だからこないんだって、にいちゃんいうけど、おれにいちゃんおこらせてばっかいる。だからだめなのかな。おれ、わるいこだから?」
僕に。なにができる?
父さん。聞こえますか。
「………」
僕に何ができるでしょうか。
「達哉」
…振り向いた。
後ろの影には…うっすらと、遠く彼方の梢に向かい。風の流れに身を躍らせて空にのぼりゆくのが見えます。
「にいちゃん」
僕は足にもたれさせて指差す。
どことも定めず、ただ先を。弟のみえる姿と、僕の思う、正体をだぶらせぬよう気遣いながら。
「………みえるよ………」
光が。見えます。
あなたののぼる、その先に。広がっている眼下には。
「お前にも見える。いっしょに見よう。…にいちゃんが見えるんだ。…お前なら見える」
お父さん。この世界は。あなたの愛したこの世界は。
とても美しいですね。…あの、向こうの川原は離れたこちら側からも、ささらぎがたなびいて見えます。
「………あそこ、ひかってるだろ」
遠くの山々は雪煙がのぼる。…いつかのぼろうと約束したところですね。
いったことはないけれど、凍みる自然が恵みをくれるのでしょう。
「うん。…ちかちかしてる。…なんかね、動いてるの。…ひかった」
あの高みにはのぼれない。僕はここが精いっぱい。…だけど美しく胸迫るのです。
美しさに、羨んで。だけど僕らには降り注がなくて。どうしてか、なぜなのか。
己のこころをのぞいてみても、僕らに注がれないのはどうしてか、ちっともわからないのです。
「…のぼっていくだろう?……あれ、父さんだよ」
この世界は平等で、だけど等しい高みまで上れない僕らには、見上げるばかりの代物です。
こんな崖からのぞむ景色をどこまで遠く見つめられても、風は凍てついて自然そのものに、時々刻まれそうになります。
「すごく高いだろう。…もう行った」
あなたの吹き出た屋根の先よりここははるかに高い場所なのに。
僕らにはまだのぼれません。道がないから、掴まるところをさがさないことには進まない。
僕らにのぼる術はないということなのでしょうか。
「……あれ、父さんなんだ。……見たろう?お前も」
僕らの暮らす、この世界はおそろしいほど平等で。等しく吹き付けてくる風に吹かれるのが精いっぱいで。僕は退けられそうになる。
平等な高みまで上り詰めれば優しくとも、上れない僕らのもとには厳しく吹き付けるだけで。時々振り落とされそうになる。
「おとうさん?」
あなたにはどんなに見えますか。そこからはどんな眺めでしょう。
きっとここより雄大で、心うつ世界が待っているんでしょう。
「そうだよ。…父さんだ。いいよなあ。……そらとべて」
そこからなら僕の悩みなんかちっぽけで、あがいているのもばかばかしく、遠い所まで見えるのなら。
「いいよなあ。父さん、空飛べて。……うらやま、しいよなあ」
人をねたんで、大切なものの声を聞くのも忘れて、苛立つばかりな毎日なんか、きっと永久に訪れずに。
「にいちゃんさ…とべないんだ。…遠くまで見えても、ときどきなにもかもわかんなくなる」
ドアを探さないですむ。
どこへいくのも気遣わないで、望む景色までゆける。
「聞こえなくなったりする。見えてもどうしようもなくなって、どこにもいけないんだ」
ドアの向こうになにがあるのか、おびえないで、どこでも見渡せる。
…お父さん、僕も、そこに行けたら。
「ああ、空飛べたらなって思うよ。にいちゃんはどこにもいけないし、お前が見えるものもときどき見えなくなるんだ。あんな遠くまで見えてるのにおかしいよな。とべたら、見えるかもしれない。…遠くから見ていたらまた、見えるようになるかもしれない。…そう思うんだけど」
遠く隔たりのない、どこまでものびゆく彼方まで見渡せる。あなたのところまでたどり着けたら。
「にいちゃん」
だけど僕は、そこにはいけない。
「達哉。みんな、見えないんだ」
だって。達哉には、まだ僕の事が見える。
「お前がどんなにいいこでも、見えないんだ。…知らないひとが見えない事が、お前にはなにもないって、誰がきめたんだろう。お前にはお前自身は見えないのに、お前の事をなにもしらないひとがきめたことを、お前が信じなきゃいけないって、誰がきめたんだろう」
泣いて、だだをこねる。
わがままにも見える小さな手が持っているものをさもなくば誰がうけとめるだろう。
誰にもわからない、わかろうともしないささやかな幼い心を、振り切ってまで僕はそちらにいけない。
「…………だって………」
この手を僕が握っている。
「わからないかな?達哉。にいちゃんのいうこと。…むずかしすぎたかな」
「…………………………」
掴む手を。探る。
「…………おれ………」
けがれのない心はかよわさを畏れて、僕の手をほんとうに掴めるか手繰る。
幼いと侮られる、けれどその目は庇護に足りうる支えを見抜く。真実を探す小枝の指は、実になにより鋭い刃で、突然に、僕らの怯えをつきとめるから。
「おれ、わるいこじゃないの?」
…僕も、いつかは見つけられずに、忘れられた英雄と同じくこの刃にさされるのでしょう。
「……………ああ」
今も痛い。
「そうだよ。…知らない人の言葉なんか、信じないもの。にいちゃんにとってお前は、そんな子じゃないんだから」
張り詰めた目がこぼす涙は石つぶてのようだ。僕のこころにふりかかる。
「………!…………ほんとに?」
お前の見えていたものが僕には見えない。お前の掴む指をいつまで支えきれるか知れない。
「そうだよ。…だって見えないのに嘘つけるほどにいちゃんはかしこくないもの。お前が何度教えてくれても、怪獣の名前だって、いっこもおぼえらんなかった」
だけど弟がこの手を握り返す限り、僕はそちらにはいけないんです。
「だけど、今日は良い子じゃないな。…なんでだかわかるか?」
腕組みをして、微笑んだ。すぐにほどいて弟を支える。肩を包む手のひらと、瞳は幼い高さに合わせて。
「………?………」
「簡単だよ。…ほら」
肩からそっと手を外し、弟の頬を包み込んだ。
「ニイッとして」
「にいひゃん」
頬を優しく引き上げる。
真似をしろと瞳で合図して、弟の目を見つめ返す。
「…笑ってな。達哉」
「………………」
弟の目はうなずいて。ぽろぽろとこぼれながら兄を真似る。
「なくなよ。……男なんだから」
弟の目は幼いけれど、僕らよりも心とすごく近しくて。
だから時々背けるんだ。くすんでしまった自分の色がわかってしまうのが怖くて。
「なあ、達哉。…男ってやつは」
だから心と違う色で飾り立てようとするんだ。
うまくいかないことが、思いどおりじゃないのが悔しくて。
だから僕が伝える事はあざとい術なのかもしれない。
でも、何かの盾にはなる。目指す事、上を向く事。
それらは言葉で読める意味ほどには清廉なものではないのだから。
「男ってやつは、ちょっと笑ったくらいがカッコいいんだぞ」
あなたもそうやって笑ったんだろうか。
だけど僕の中では頼もしく、今も光る宝物だ。
だからあなたを知らない弟に、預けて意味を託しましょう。
僕の見えなくなった視点から、彼はきっと大切なものをその目で見定めるでしょうから。
僕は遠く離れずに、その目を追っていこうと思います。
「だから笑っていよう。…達哉。」
小枝が芽を吹き、風にたわまず。
「………………うん!」
僕を握り返さなくなる、その時まで。
父さん。聞こえていますか。
「ちょっと風が強くなったな。…降りようか」
また会える時には僕はあなたが抱けないほどに育ってしまって。二度と同じにできないでしょう。
軽々と運ぶ飛行機遊び。なにもとらわれない瞳が笑う、なにより僕が好きだった笑顔。それらを僕は持ち得ない。
「帰りは楽だろ。…危ないからにいちゃん、背負って来たんだよ。お前ひとりじゃ危なっかしいからさ」
僕が出来る事と、あなたのしてくれたこと。
けして同じではなく、あなたの影はのしかかり。僕はふたたび塞ぎ込んで、遠い彼方を見るのかもしれない。
「こら、汚いだろ。そういうの珍しいからって拾うんじゃない」
優しさを与え続けるには、僕のこころは小さすぎて、近くのものをまもりきるのが精いっぱいだ。
近くにおけない瞳を信じて、背を向けるほどに勇気はなくて。僕はあなたの影にも届かず、小さな存在で終わるのかも知れない。
「まったく、おまえはな…泣いたかと思えばすぐそうやって…現金なんだから」
それでも僕は生きなきゃならない。
「ダメっていってないだろう。…そうやってムクれるんじゃないよ。…別に怒ってないんだからさ」
飛べなくてもか弱い二本足でこの地にせいぜい根を張って。いつかたどり着けると高みを見上げ、今日もないものを羨みながら、僕は届かない腕の短さに絶望して。何度もあなたを憎しむのでしょう。
それでも僕らは生きなきゃならない。
「にいちゃあん!いくよお!」
日に日に手に余る重みと格闘しながら今日も。
「こら!達哉!」
あなたが去った、この街で。
僕らは。今日も、息をしている。
完
(おつかれさまでした。ツールバーのリセットでお戻り下さい。)