誰でも。夢を見るから。
「………………また、……跡が」
果てる事なく、空を見上げて。
今の場所から遠くへと、旅に出たがるのだろう。
「………………どうかしましたか?」
かがんで拾い上げた消し炭を睨んでいた目は振り返り、コートに握りこぶしを突っ込んだ。
「………………いや」
警備巡回中。たまたま通りがかった場所が最近まで立ち入り禁止で。…過日やっとポリスラインを解かれた場所だった。連続放火現場のひとつ。…そこで、捜し尽くされたはずの場所で、それを見つけた。
「いざ捜そうと思うと何もないもんだな」
ポケットの中の消し炭は固く、少しこすると表層が崩れた。
「まったくですよねえ。こっちが非番に限って招集がかかる。勘弁してほしいもんだ」
掴んだまま、薄めで様子を探ると、薄型の固まりが手の中でうっすら、ゆらゆら動く…。
「……………」
おそらく、また、見つけたもの。
「…………大丈夫ですか?」
「!」
引っ込めて、できるだけ様相を整えた。
「…な、なに」
「いいえ、別に…。疲れがでたんですかね?」
警戒は杞憂かもしれない。
だが、見つかれば彼だってどんな様相に変わるかわからない。
「あ、ああ」
一個目のこれは、弁明するのが必死だった。
上司の目の色が変わり、私は閑職へと廻された。
一時的だ、と。お前は疲れているんだ、と。…それ以上は追求されなかったが。
「疲れてなどいない…」
あれは明らかに警告だ。
「見つけた以上は、あきらめないだけだ」
少しでも、望むかけらを手にしたくて。
少しでも、望むあかしを目にしたくて。
手元にある、灯りの暖かさを知っていながらも。
「もう、こんな時間か」
人は違う場所へと踏み出したくなるのだろう。
暖かさを知っているだけに。それが当たり前だと思って。
「ええ。もうお帰りになったらどうです?毎晩遅いですし。…それ、息子さんでしょう?可愛いですよねえ」
のぞきこんだ手帳には写真が二枚挟まっていた。
無骨な指が撫でる先は、どれだけにいとおしいのか。
「…………ああ。来年から中学でね。下は、まだ幼いが」
フッと目元がほころんだ瞬間、男の唇がきつく引き結ばれた。
「そろそろ季節だからな。…また、奴が来るか」
「え?」
必ず、人は。
「……いや。こっちのことだ。……雪がな。降ると」
「はあ」
人は空を見上げて、途方もない夢を見たくなるから。
「…いろんなものが見えるが、子供達には…奇麗なものだけ見せてやりたいな」
叶いもしないことばかり見て。…手元の灯りがあることを、いつの間にか忘れてしまって。
「遠くから見えると、どれも良く見えてしまうが…本当に美しい物を見定めてほしい。…手近だからと選んでしまわないで。…自分が納得するものを。…自分の目で」
見惚れるから。
「そう思わないか」
夢見ただけなのに、まだ手に入れてないことまでもどこか置き忘れて。
「…………はあ」
「周防さん」
途方に高いものばかりみて、灯りを取り落とした事に気付く。
「何だ」
「署から無線連絡です」
でもそれは、戻らない事に気付いた時ばかりで。
「……ああ」
振り返って再び、手に取ろうとした時。
「………はい。こちら周防。………はい、……………。…………はい」
在るのが当たり前だと思い込んで。
「…………は!?」
失ったものの大きさに気付くんだ。
「………だが!……いえ、……はい。……はい、………今」
瞬間には墜ちて行く怖さ。
「…………今、そちらに」
それになれると今度は、姿勢を取り直して。
「………どうしました?」
「………。………ああ」
再び飛び続ける事を望むんだ。
最後の瞬間まで目測をし続けて。
「………明日の話はしたか?」
「はい。明日は通常通りの任務……」
これは、ひとつの日常。
「その、明日じゃない」
「はあ」
けしてあらゆる最後ではなく、今日陽が沈んでも明日また照らされることが約束された上での日常。
けしてこの空の下が路頭に迷う事はあり得ない。そんな、箱庭程度の日常。
「見通しが良いが足場の固い明日と、羽ばたけるがいつ何時風穴が開くか分からない明日と、君はどちらを選ぶ」
「…………………はあ」
箱庭から外れた人間以外の、あらゆる人間にとっての日常。
それはすなわち非日常。…明日なんか、ないから。
「明日まで考えてこい。……通常通りじゃない明日までに」
明日なんかなくても、誰にも陽は昇る。
「今日は直帰しろ。…俺が戻るから」
「はあ、しかし」
ひとかけらの目測をまだあきらめずに。
「もう遅いだろう?定時は過ぎてる。…今日は帰って」
日常の陽は沈んでも、箱庭からの風景はまだ消えてないから。
飛ぶ事を夢見る人間にもまた、陽は昇ることを。
「明日に備えるんだ」
信じ続けるのなら。
「……なあ、一杯やらねえか?もうじきクリスマスだしよ。…下のコブできてからってもん、ごぶさたじゃねえかよ」
いつかの年の暮れだった。
俺が覚えているのは、独身自分は毎日酒浸りだった友人が結婚してからというもの、とんと付き合いが悪くなり、近頃は奴を人数に入れることも忘れていた。
それなのにその夜だけは突然に、飲みたくなった。
「子供のせいじゃないよ。家のローンもあるしな。うちの奴だって疲れてるだろう。俺ばかり家を空けるわけにはいかないからな。…それにしてもお前は、いつまでたっても口が直らないな。俺に対しても後輩に対しても同じだな、いつまでたっても」
…友人であり、先輩でもあった。
「そりゃあ、俺の持ち味よ。変わらねえよ。一緒に仕事やってきゃ上も下もねえ。…そのかわり、俺はどんなに偉くなったって、どんな仕事したとしても、考えは変えるつもりはない。…決めたら、最後まで、しっぽ掴むまであきらめねえ。…どうあったって」
大概が俺のこんな言い分を、絵空事だの狂言と茶化す輩が大半だったが、奴だけは最後まで俺の話を聞いていたものだった。
「…お前らしいって、ことなのかもな」
半ば呆れながら俺を見る目は、なんというか慈愛に満ちている、という言い方をしたら大げさだろうか。
「ふん………まあな」
だが表現するとなるとそれ以外にうかばないような、限りなく優しい目をした、そんな男だった。
「…で、行くんだろ?ひさびさに」
おチョコの形を作った、日本古来の「お誘い」のポーズで肩を叩いた左手は空を掻いた。
「ありゃ」
「悪いな。…いつも」
求愛もむなしく、奴は着慣れたジャンパーを片手にカラ手になった右手を挙げた。
「毎日毎日まっすぐ帰って、お前もつまらねえ男だな」
「いや。そんなこともないぞ。…ここのところは、寄り道ばっかりだ」
「珍しいな。…どこに出かけてるんだよ。いい店でもあるのかよ」
今でもそうだが、酒の味を覚えてからというもの俺は飲んでばかりで、仕事以外は女か酒でしか楽しみの表現が見当たらないような男だった。
だから、誘いを蹴られたやっかみ半分、なんともなしに尋ねたのだと思う。タバコの火を探しながら。
「…それがみつからない。…なかなか見当たらなくってね。早く探して帰りたいんだが、いつのまにか朝が来る。…そうしたうちに、忘れられてしまうんじゃないかってね。…わかっているんだが」
「…………………へ?」
奴の口からもれた言葉の意味が今でもわからない。
当時も同じく疑問符はついていたが、それは真からわからない。純然とした疑問だけだった。
今はいろいろ見当たりすぎて薮小路に入っている。
「………いや」
きょとんと、煙草をくわえた俺にポケットから火を出した。
「星を探しに行くんだ。…今日こそは、見つけられそうだ。そんな気がする」
黄色い百円ライターを俺に握らせて手を振った。
「??……………なんだあいつ」
雪が降るんだと思った。
寒さに震えて、珍しく俺はまっすぐ家路についた。なじみの店に行く事も忘れて、だからといって何か考えていた訳ではなく、外は寒いなとかそんなふうに。
「…………う………寒…………」
いや、まっすぐは帰らなかった。
正式には電話ボックスに寄った。
長財布からテレホンカードを取り出して、ただ思いついた番号にかけた。
確かガールフレンドの一人の、暇そうな女にかけた。
出てくれそうなつまらねえ感じの女にかけた。
「…おう、美樹イ。……なに?酔ってねえって。…月がきれえだぜえ。…なに?でてねえ?……そりゃ、お前のアパートが悪いんじゃねえの。外もみれねえのかよ。お前のボロ部屋は。…何?違う?」
真面目だけが取り柄の、つまらない男に気分を壊された。
だから、話損ねた何かを、似たタイプの女友達に話したかったんだろう。
もどかしいくらいに不器用で、その癖てめえの信じるところに殉じるような。
あくまで想像で、印象にすぎないのだけれど、その時俺が浮かんだ番号が美樹の部屋のそれで、原因があいつの意味不明なことばにほかならない。
「……雲?でてねえぜ。……煙?……こっちにゃ見えねえな。……ああ」
遠くで半鐘が走って行くように聞こえた。消防車か。
「月…………、ああ、………こっちのも。なくなっちまったなあ」
ライターをゆらしてみていた。
「……………。おかしいことだな。さっきまで、見えてたのによ」
風景は、時間は違っても。よぎった事は消えてくれなかった。
「……………いいや、ちがう」
酔った目で見た。
「………………!これ………」
月と重なる。酔っぱらいには変わらない色をした手のひらの中は消え変えた文字、こびりついた焦げ跡の破片。
「………とんだ悪酔いだ。……なんで俺は見落としたんだ?」
あいつが一人で消えた理由、帰るとは明言しなかった理由、……そして、言いかけた。
「意味がわからねえ……あいつ」
ガラス扉に張り付いた無数の指紋。
ひとつひとつは薄くとも、重なると見えない。ひとつひとつは重要なのに、全体を見て意味を失う。いっしょくたにした時点で総じた意味すら失うのに。
「…………何を………ばかばかしい………ッ!」
予想のつかない事柄はそこらへんに散らばって。缶カラのように足下に転がってはいつ足下を掬ってもおかしくはない物事。
叩けば崩れる、見えなくはなっても解決はしないのに。手に取れるぐらいになってからみんなこう言うんだ。
「とるにたらねえことだ」
現在は一枚硝子を隔てた向こうに。
「………………………」
「先輩」がいる。
夢を持った俺を腰掛け扱いせずに、一時でも「警察官」として職務を全うしろと。
「まったくもってとるに足らねえ事だよ」
人を小馬鹿にした態度を持った俺が、祝典行事をさぼったことに端を発して、しまいには殴り飛ばした。
一見とんでもなく横暴に見えた「先輩」だけが唯一俺を見限らず、この先どうあれ、一時でも一つの職業で培ったことは無駄にするなと。今の時間のツケは来ると。
「そう思わないか?…俺は今、ばかばかしくって仕方がない」
この先お前は、司法を支えるものの端くれとして、お前の判断が時として人の一生を左右する。
「………………………」
だから今しか学べぬ、犯罪を逃さぬ心と犯罪に関わった者の心をお前は忘れずにいろ。
「…そういったらあんたに殴られたな。…でも、今あえて言う。あまりにもばかばかしい」
そして、ここで暮らす人たちの心を踏みにじる事は司法に対する冒涜と知れ。お前が目指すものは、今お前が触れているものたちの根底を守るものなのだから。
「…なにより馬鹿げてるのは、あんたがそっちにいることだ。…こうして、俺と向かい合わせになるなんて、思いもしなかったよな」
どんなに些細な事でも、と。殴られた屈辱でにらんだ俺に諭した。
あのときから俺が目指すものは様子を変えた。同じ形をしても、違ったものに。
同じ厳しさと、同じ辛(つら)みをはらんでいてもその先にあるものは、それまで俺が漠然と想像していたものとは明らかに違っていたから。
「なあ。………周防さん」
だから馬鹿げている。そう言うんだ。
同じ形をしていても、馬鹿げているように見えても違う側面を持っていることがあると。あんたが教えてくれた。
「検事だからといって、責め立てるばかりが能じゃない……俺は…あんたを追求しない。証拠がそろいすぎてる。…何の根拠もない。目撃者もいる。…あんたが同じ時刻に街を歩いているのを何人も見てる。……こんなの怪しいという方が、馬鹿げてるよ」
仕事となると雄弁だったはずの、奴の唇は固く結ばれたままだった。
「俺は追求はしない」
断言できた。
俺なりの、どんな側面から見ても問題ない。…俺が挙げることではない。無実だ。
確信に。背を向けた俺をお前はどんな目で見つめていたのだろうか。
「…お前の仕事は。人助けじゃないはずだろう」
口ずさむように。乾いた唇でふり絞って、何かを投げ捨てたようにつぶやいた時のお前は。
「俺は公正だ。…冷静に判断している」
自信に満ちていた俺を見ていた。
「お前にはそう見えてもな」
恩人を救う事に酔っていた俺に、自分の無実を伝えるでなく、まるで仕事の延長のように俺に問いかけていた。
「言っただろう。何もかも罪として挙げる事が仕事じゃない」
「一方向と確信だけが判断材料じゃない。人の目はふたつだ。もう一つをよく考えろ」
あまりに冷静だった、俺を見る目。
むしろ俺のほうが裁かれているようで、日頃見る公僕の姿が嘘のように。
「さんざん調べたさ。…お前なんかよりもよっぽど有力な被疑者だって居る。…確信は真実だ。こんな馬鹿げた容疑からすぐに解放してやるよ」
俺の知っているお前がいない。人に対して易しい言葉を選ぶ先輩は既にそこにはいなかった。
「………それがお前の真実か?」
お前のほうが秤のようだ。
「嵯峨、何事も一枚岩じゃない。人の目も。真実も」
安寧を求めず、俺に言うのか。
「お前がこの先どんな問題にぶちあたろうと、そのことだけは忘れるな」
裁かれる前のお前が、救いを求めない。
「なにを言って………!」
既に原因も結末も知っているような顔で。機転の利かないクイズ司会者のように答えを言いたくてウズウズしているような。
「目は見開くことだけが脳じゃない」
早く気付けと言わんばかりな。促す目。
「閉じる事も仕事だ。いつ開けるかも、それは、持ち主次第なんだ」
「……それは俺に目を瞑れってことか!?」
本来の意味とは違う。俺は裁かず、奴は本職を全うさせようとしている。
「ふざけるな!冗談じゃない」
ガラスが挟まってなきゃぶん殴ってるとこだった。
「………………………」
いつもの微笑が嘘のような。厳しい目で血の気が引いた。
「本気なのか?……周防」
お前の掴んでいる真実は。見ているところは偽物だとでも言いたそうな、醒めた目で。
「なあ、嵯峨……」
読まないで欲しかった。
そうしたらこの先、どんな展開でも俺は納得した。
「お前は、ここで終わる気か?」
「……?……なんのことです」
突然上司に呼び出された。
その答えは、あの時のお前の目が言いたげだったこと。
「冷静に考えるんだな。………お前の言い分は無謀だ」
あいつの言った事とほぼ同じく、真実を確信した俺をたしなめる。
「どう言ってもこれ以上は、お前に任せるわけにはいかない」
「………!そんな」
約束した事を。
「命令だ。……夢をかなえたければな」
忘れてなんかないさ。
「夢………」
見つけられない星。見えたはずの雲。
「……………わかりました」
思いよぎる事柄と同じに確信あるものでも、場合によっては除ける事。
探し物を見つけても見なかったことにする。
「なんてな。……そんなの。納得してるとすりゃあ口だけだぜ」
不利益が芳しくないのは司法も同じだ。
…お前のバッヂはお前だけのものじゃない。付けていたければこの場は引き下がれ。
「…………糞ったれが」
襟元を引きちぎる指をよぎる言葉が食い止めた。
「…決めたら、最後まで、しっぽ掴むまであきらめねえ……。か……」
あきらめねえよ。
「決まっているだろう?」
そういう意味にとっていた。
あの時の俺にはまだ見えていたのかもしれない。
「さて……」
いやな役目を仰せつかった。
多分楽しくはないだろう。ある意味選ばれた役目なのかもしれない。
「…………」
嵯峨は面の皮が厚いから、平気だろうって。
半ば押し付けられた。そんな思いもある。
だけど、同じ押し付けられたということでは奴の比ではないだろう。
「ひでえもんだな、おい」
俺はある用件でここに立っている。
何度かここには来た事がある。
どの道玄関までだ。それ以上は邪魔した事はないが。
『何遠慮してるんだ。独身の頃はお前のほうがおしかけてきたじゃないか』
残る声に虚勢を張る。
遠慮なんかしてねえよ。ガキの匂いのする家が気に入らねえだけだ。と。
「気に入らねえな」
だが今は現状が、だ。
散らかっている。誰が投げ込んだんだ。空き缶だの、ゴミだの。仮にも人の生活場所だろうに。
マスコミどもの影響かもしれんが、近年は特にひどい。
加害者側・被害者側の言い分、事件によっての対応の違い、捜査の進み具合、公開の度合。いろんな要素が絡んでくるが、どんな理由でも当事者を第三者が無責任に介入していいことはない。そういった場合、どんな方法であっても良い作用は生まない。
だから気が進まなかったというのはあるのだが。
「なにか御用ですか」
「!」
声と目の高さは胸くらいだろうか。
「あなた誰ですか」
きっちりとネクタイを締め上げている。
衣替えはすんでいるだろうに、それとも校則で決まっているのか。
年頃には珍しくぱんぱんに膨れ上がった学生鞄を持って、奴は立っていた。
俺なんかだと鞄なんか潰して「格好よく」みせたいもんだったが、今は時代が違うのか。
…ああ、私立の学校だったか。平常点に付け加えられるのかね。わからんが。
「周防克哉………くん」
「?………ええ」
暑さに汗でずりおちたらしい眼鏡を人差し指で押し戻し、こちらを見上げる。
「うちになにか御用ですか」
「届けにきたんだ。…預かっていたものがあってね」
いや、見覚えがある。今よりは大分小さかったが。
何年か前に、二番目が産まれる直前に出産祝いと称して飲んだ。…たしか丁度このへんでこいつが立っていて。
「……御用なら、中にどうぞ」
「いや。しかし」
ガキが嫌いだからという理由ではない。
突然に邂逅から引き戻されたことと、なにか感慨にも似ているものがよぎったから。躊躇したのか。
「こんな所じゃ人目をひきます。それでなくても目立ってるのに」
短気というのでもないだろうが、俺が空気を読まなかったことでもないだろう。
「…あなた警察のひとでしょう?」
「まあ、……いや、………まあな」
厳密には「警察官」とは呼ばないが。そういうくくりじゃないんだろうな。多分。
「迷惑なんですよね。察してくれませんか?」
けして急いでいない歩調に粟食って追いすがるのも、躊躇のせいだろう。
急ぎ足で俺は自分の胸先ほどの坊主に続いた。
『……おとうさん、おみずだよ』
門扉を開けて出迎えた。
コップになみなみと注がれた水をこぼさないように抱え持って、夜も大分遅かったというのに小さな男の子が心配そうに見上げていた。
『克哉、ただいま。まだ起きていたのかあ?』
分厚い手のひらで小さな頭を握るようにくしゃくしゃと撫でた。
『うん…おみず』
『ああ、サンキューサンキューな』
確か上機嫌で、一番目が出来てから晩酌もほどほどにしていた男が二番目の誕生という理由で大酒を喰らっていた。あのときも俺は面倒くさい役をおおせつかった。
『おいしいなあ。ありがとうな』
大げさなジェスチャーでぐびぐびと喉を鳴らす。
『はあ〜、うまいなあ。どんな銘酒だ?うまいうまい!』
空のコップと、父親が飲んでいる間に俺からもぎ取った背広と鞄をかかえて。
『おじさんも要る?ぼくもってくるよ』
『……いや、おじさんはいいよ。……ぼうずしっかりしてんなあ。』
俺は父親の肩を担いで、門扉を開けた男の子に続いた。
『おかあさんもうねちゃったんだ。達哉もねちゃったから。起こしちゃダメなんだよ』
子供特有の思うままに口走るような、俺の言葉を聞いての返事なのかいまいちよくわからない返事だった。
『……星だぞ。克哉、見てご覧』
嬉しさと酔っぱらった夢心地に足を止め、父親は天に指差した。
『いいなあ。星だぞ。きれいだなあ…ぜんぶ、あれ、お前に持ってきたいなあ』
『……だんなあ』
酔っぱらいの戯言だった。
切り上げる材料を探そうと、なぜか息子の方に目をやった。
『………………』
無言で、父親のさす方向をじっと見る。
ぼんやりと見つめているのは眠気なのかもしれなかったけれど。
『あの星達は、どんなかたちだろうな。きれいだなあ。…あれぜんぶ、おまえのところにもってこれたらなあ。いつになるかなあ』
『………………』
星をみながら少年は、無言のようだったけれど唇だけは微かに動いていた。
その何かが聞き取れないのは、父親の言葉が矢継ぎ早だったためか。
『はやく…もってこれたらいいなあ』
俺の耳には戯れ言だった言葉にも、少年は何度も頷いているように見えた。
「何度もしつこいですよ」
ガキのいる家は大嫌いで、正直早く帰りたかった。
「…………………君」
幸い喫煙が認められたらしいのが救いなくらいで。不快感を隠せずに一箱カラにした。
備えあるヘビースモーカーの俺はズボンに一箱、上着に一箱。通常2箱は持ち歩いていたから、このような不運の篭城にもけして寂しくなることはなく、遠慮なしに封を開けた。慇懃無礼なクソガキをどう言い含めようか考えあぐねながら。
「そうそう、…お母さんは留守かな。もう夕方だが」
それでも平行線には具合が悪く、なんとかマシにと水を向けた。
「…母親が必ずしも家に居なきゃならない法律なんかないでしょ」
……パートか。
「…………まあな」
少年は黙々と正座した姿勢でタオルを畳んでいた。
「…………………」
俺の前には座卓の上に灰皿とおしぼり、客用湯のみに煎茶一杯。
表面上は客向けに形づけてあっても、背を向けた姿勢はどう見ても。
「…………………」
早く帰れということか。
「美樹でも連れてくればよかったか」
こういう早熟なガキは女に子守りさせて言う事聞かすのが早かったかもしれない。
しかし仕事だ。そういう訳にもいくまい。第一あいつは部外者だ。
「なあ少年」
逃避の空想を払うように、煙草の火をもみ消した。
「おじさん達だって、別に君に嫌がらせしてるわけじゃない。おじさんの用件は最初に言ったはずだったけどな」
できるだけ優しく。
隠せようも無いが、俺だってガキは嫌いだが鬼じゃない。できるかぎりの猫撫で声で言い聞かせようとしたつもりだった。
「…嵯峨さんっていいましたよね。…優しくしようとしてるんでしょうけど、とても不愉快です。…おじさん、って何ですか。普通の一人称にしてもらって結構です。馬鹿にされてるような気がする。普通に話してもらえませんか」
正論だ。
「ああ…これは失礼」
お父さん、見てますか。
息子さんは立派に、根性悪の優等生として成長しています。子供らしさのかけらもなく。これだから最近のガキはかわいげがない…。
「いや、好都合かな。商売柄子供にはあまり縁がないんでね。どう話そうか迷っていたところだ。普通でいいなら、そうさせてもらうよ」
恫喝はしないが、俺は容赦ないぞ。
「……………………」
泣いても知らねえぞ。そうなったら退散するがな。さっさと用件をすまして。
「単刀直入に言わせてもらう。…何故そこまで拒否する?けして嫌なことを強要しているわけじゃないはずだ。俺としても君がうんといってくれればそれですむ。煙草の煙を増やす事無く退散だってできる」
あからさまにいやがっている子供の横で吸うのは楽しくないどころか。
「……………………」
今やっている事だって、ちっとも愉快じゃない。
「なぜ受け取らない」
「……………………」
こんな部屋。
「お父さんの持ち物だろう。なぜ受け取らない?」
「…………………!」
生活感のにじんだ、こんな薄汚れた部屋の中で。
「君は大変な親思いだそうじゃないか」
詰問するなんて、つもりはなくても俺が鬼みたいじゃないか。
「……………………」
散らかってはいなくても。子供のいる家、という空気。
落書きを消した跡が鮮明に残る襖。シールだらけの戸棚。
こういうのを見せられていると、抑えた意志が崩れてしまう。
「仕事柄、いろいろと耳に入るんでね。君はほぼ毎日面会に行っていた。同刑務所の誰よりも面会を受けていたのがお父さんだと聞いていたよ」
思惑が、自分の発言を違ったものにするようで。
「ペラペラと、警察の人はよくしゃべるんですね。…もう少し黙っていて呉れるんだと思ってた」
動揺は少年にも筒抜けなのか。「命令」の意味はこのことなのか。
「関係者の事は知っていなくてはならない。俺だって他では言っていないよ」
お前は、相手に関わりすぎた。
「そのくせ勝手だ。…うちまで押し掛けて来て、アルバムまで持ってったのに要らないとなると突き返してくる。母さんだって僕だって、持ってかないでって頼んでも、少しも聞いてくれなかった」
元同僚だそうだな。今までどうして黙っていた。
「…………………」
お前の言い分は聞けんな。証拠自体洗い直さねばならん。
「とうさんを見たって人も、証言してくれなかった。…警察の人が行くからだよ。とばっちり受けたくないから、みんな何も言わなくなった」
俺だって裏切られたよ。真実を叫んでも聞いてもらえなければ、すべてが嘘になる。
「でもこんなこと、言わなくてもわかってるんでしょ。仕事でいろいろ知ってるんだもんね」
だから何も言わなくなるんだ。
奴もお前もそうだろう。それでも真実を忘れられないのは何故だ。
「それなら受け取らないわけなんか僕が言う必要もないでしょう。…言わなくてもきっとわかってるんだから」
口ではどういっても、こっちを睨んで。
「……わかってることなら聞かないさ」
数週間前の同じセリフを俺は吐いている。
「……迷惑だからですよ」
俺に何をしろという?お前は自分の仕事をしろ。
「……意味がわからないが」
俺を裁け。
「迷惑なんです。あなただけでなく、警察のひとだけでなく」
周防…俺が欲しいのは真実だ。
「あのひとなんか、迷惑だ」
『お前だって、早く出たいだろう?』
「母さんも僕も、あのひとのせいでいろんなものをなくした。ずっと仕事で遅いんだと思って我慢した。………だけど違ってた」
父親の遺伝の、面影か。俺の消化不良なのか。
重なって見える。緊張した対面は、あの日の午後のようで。
『…結局は皆同じだな。嵯峨、お前も同じ言葉を言うとは思わなかったよ』
釘を打たれた。上役の命令をくぐって会えたお前の言葉は重く響いた。
『俺は納得してここに居る。何を言われても、納得した事しか出来ない』
あれから何があった?
「あのひとはね、ムシャクシャしたから火をつけたんですよ」
そんな筈ないだろう?
『放火は重罪だ。…どのくらい酌量されるか。お前だってわからないわけはないよな?』
最後に会った時の答えがここにあるような気がした。悲しい目。
「迷惑なんですよ」
回想と、現実と。最初の目の色と、今があまりに違いすぎて当惑する。
あのとき、光り輝いていた目は。
『誰に、何を言われたんだ?誰の指図でこんなことをしてるんだ?』
「あんなひと」
…もう、俺に指図をするな。…妻子を思って俺はここにいる。…だから俺がやったことだ。
「あのひとの身勝手で、僕らどんなに嫌なおもいしたか」
…そんなこと、あの子は喜ぶのか?こんなことして、お前は顔を会わせられるのか?
…お前がこんな所にいたら、あの子の夢は何も叶わないじゃないか!
「それだけの、たったそれだけの理由で、全部!全部めちゃくちゃにして!」
…お前は自分の仕事をしろ。それが俺の望む事だ。
「あんなひと!父親でもなんでもないよ!」
違うだろう?
「…………………!」
あの星全部、あの子にあげたいんだろう!?
「どんな仕事になったって、家に帰ってこなかった。前より暇になったって母さん喜んでたのに!」
星を捜しに行くんだ。
「………どうせ夜遊びしてたんだ!それでムシャクシャしてって、そんなの自分が、悪いから仕事ほされたんじゃないか!」
早く見つけたいんだが、…忘れられてしまうかなあ?
「………っ」
ちっとも難しいことじゃなかったんだな。本当に、星を捜してたんだ。
「そんなの当たられて、僕ら迷惑だよ!迷惑なのに、…こんな事して、父親だなんて!」
…ちょっと会わないうちに、重くなったな。
「どんなこと言われたって無意味だ!意味なんかない!そのままじゃないか!」
…嘘つきの父さんだって、思われたくないもんなあ。
「あんなひと、父さんなんかじゃないよ!」
克哉は向き直って、テーブルの上に置かれた包みをひったくった。正座からやおら立ち上がる。
「ずっと…!かえってなんかこなきゃいいんだ!」
吐き捨てると同時に床に叩き付けた。
「!」
床に散らばる中身が引き金に、吸い口を持たない手が拳になって少年の頬を打ち付けた。
「…………ッ」
克哉は叩き付けられる。衝撃で襖に打ち付けられた。
「……………っ………」
眼鏡が歪んだ。これは高くつくか。
…いや、今思う事はそんなことじゃないな。…仮にも暴力。
「痛いか?」
「………………………」
かけてやるのは言葉だけ。
俺だって痛い。何せ常日頃、デスクワークにいそしんでるから。
それでも大人の鉄拳は痛い。どんなにわめくか。そっちが怖いが。
「………………………」
意外にも少年はうめき声ひとつたてなかった。
「………お」
骨組みの折れかけた襖のベッドから起き上がり、手つかずのおしぼりをひったくって。数珠つなぎの暖簾をくぐり。
無言のままにおしぼりを濡らして絞り直して、頬に押しあて、茶の間へ戻った。
「………………………」
惨事の前の定位置に座り直し、外れかけた襖を見ている。
「………………………」
やがて視界が悪いのか、眼鏡に気付く。
「………………………」
感触と使い心地により、修復不可能なまでに折れ曲がったことを悟ったらしく、速やかに外した。テーブルに置く。
「………………………」
黙っている。
「…………………おい」
何事もなかったように。
「悪いな。子供の扱いが俺はわからないんだ」
報復か?無神経な俺への嫌みか。
「……………………」
どちらでも同じだが、どちらともなく。聞こえているのか今度は素直に振り向いた。
「大人ならな、我慢すればいいのかもしれない。お前さんの言う事を聞いて慰めればいいのかもしれないな。…俺のやり方はけして正しくない」
「……………………」
黙って見ている視線の方が俺にとっては辛かった。
奴は座っても俺は立ったままだ。
「でもな、父親の悪口を言う事もけして正しくない。悪い事をして捕まったとしても、君のお父さんだろう。…君をここまで育てた、君にその恩義がある以上これ以上聞くには耐えられなかった」
びびってるのか?そうとも言える。殴った事が尾を引いていないと言ったら嘘になるから。
子供に暴力ってのはどんな理由でも芳しくはねえ。平和主義ではないが、人間に理性がある限りそれを放棄する事自体横暴だと思うからだ。
しかし、俺が今震えているのはそんなことじゃねえ。
尚更一度もなかったことだ。よりによって、こんなガキに。
「…………………っ」
誰かに弱みを、見せる事なんて。
「一時の感情だとしても。お前さんの父親であることを廃業させるような言葉は、君の口から聞くべきでないことだと思った」
憎しみとも悲しみともつかない目で皿のようにこちらを見ている、この目は。
「…それだけだ。それだけで俺は君を殴った。けして正しい事ではなかったが」
秤の目。
俺を見ているようで透けて見ている。…何かどこかを、探る目で。おそらく。
「………僕だって」
襲いかかるほどに獰猛(どうもう)で、静謐(せいひつ)な光が食って掛かった。
見開く眼は、意志を持った。振り絞る。
「僕だってそう思いたいよ…」
少しずつほぐれる。唇はぽつりと、解けた途端になだれ込んだ。
「ほんとは、……ずっと………。……ずっと、ずっと」
勢いを持った意志は。隠されていた思いは。
「おまえ」
少しずつに吐き出された。
嵯峨の目を見て、少し、また少しと。
「父さん悪くないって。ずっとずっと思ってて。…だけどみんな、悪いって言う」
なだれ込む。吐き出される。流し込まれて、押し込まれて。
それはおそらく意識の渦で。少年の感覚だけが俺に告げる。
「あんたたちが決めたんでしょう?父さんが悪いって。」
食って掛かった目は、核心をついたとたんにフッと笑った。
「…父さんがやったって、あんたたちが決めたくせに。ずるいよね。…そんなこと、息子だからって理由でさ」
あきらめきった目の色。それも重なる。あいつと同じだ。
「家族だからって理由でさ。みんな、すぐにそうなんだ。一緒に住んでたって理由だけで、父さんのこと何も知らないくせに。…父さん忙しいから、日曜日に休めないから、…誰もしらなかっただけなのに」
本当はあんなこと思ってない。
あんなひどいことなんか。ちっとも思ってなんかもない。
「父さん忙しいって」
雨のあとの飛行機雲。
消えるまでずっと見ていた。
あれが虹になるまで見ていたら夏が来るかと。待ってくれた指先を信じた。
「でも違うって、聞いた事ないことばっかり!…ぼくらが嘘つきだって」
待っていたのは季節だけじゃないのに、この口はやっぱり悪い口で、僕の思った通りを告げない。
「だけど、母さんが言っちゃ駄目だって言う。わかるよお金のことくらい。家のローンまだ残ってるもん。これから売るのかわかんないけど、ここに住むには僕らそうだって言わなくちゃ」
知ったかぶりの言葉で、僕の声で注がれる。
『………克哉…すまないな』
言いたい事はそうじゃないのに、憎ったらしく形作る。
『父さんは…駄目な父さんだ』
本当に悪い口です。だからこんなことしか言えない。
「父さんが悪いって。だからすみませんって。そういう顔してなくちゃ、ここには住んでいられないもん。…みんなが思う通りの顔しないと、また仲間はずれにされるよ」
悪いのは父さんじゃないってわかってても。僕には愚痴しか言えないんだ。
「回覧板だってなんだって、おじさん達には小さいでしょ。だけどそんなのもわかんないって。やっぱりって、笑われる」
おばさん達が。言うから。
母さんが笑われるから。
「達哉だって友達もできなくなる。…可愛そうでもなんでも、相手にしてもらえなくちゃ。こんな小さな町。すぐにいやになっちゃうよ」
父さんは知らなかったよ。父さんには言わなかったよ。
だからこんな、知らない人に言うんだ。自分のほんとうの心だけど。
「こんな町…きらいだよ。すぐに噂して、違っても、誰もなかったことにする。傷ついたことなんか放っておかれて、気にした方が悪い、みたいな…」
大事だったことだけど。吐き捨てたい。
小さな町。つまらなくて、ちょっとのことで気を使う町。
みんなが良ければよくなる町。
「それでも、さ…それでも」
皿の瞳は何を思う。秤にあふれた涙は今度こそ見逃しようがなかった。ぽろぽろとこぼれた。
「それでも僕には大事なんだよ」
だけど父さんが愛した町。父さんが精一杯、僕らを守ってくれた町。
『………嘘つき!』
いつだって、こんな事しか投げつけられなかった町。
『………ごめんな』
それでもあなたは約束を立てて、僕にまた誓って。遠い約束を、信じたから。
『………弟が産まれたら、みんなでいこうよ』
過ぎた事は流される町の、仕来りに甘えたのか。
それとも僕が子供だっただけか。子供だから流されなくちゃならない。ここにいたいのなら。知らない振りをして。
「…父さんが悪くなくても、嘘つきじゃなくても…。僕らにとっては今が全てだもの!」
こぼしたのは気のせいだって、言い通せば守られる。
「………にいちゃん」
それも、僕がわかってることだから。
「………達哉」
落書きの帝国の扉がするすると開いた。
もう片方の入り口の、無傷の襖のある方から。
「…………にいちゃん」
小さなこすり目の少年が歩いてくる。
パジャマを着ている。こんな早くか。
昼間ではないが、まだ子供が眠るほどの夜更けではないのに。
「起きたのか。……夢見たか?」
「…………………ん……………」
いかにも子供らしく。頓服(とんぷく)を着ている。
動物をかたどった帽子をかむったままは夏前の着衣にしては少し暑そうに見える。
「ん………とね、おほしさまは?」
いや、顔が赤いのは。着崩れしてるところは熱か。寝込んでるのか?
「おほしさまはきてないよ。…まだ、どこを歩いてるかな」
うわごとにあわせながら手慣れた様子で上だけ着せ替える。
「おほしさまいたのにな。すっごいきらきらひかってたのに」
「達哉の星かい?水色だっけ?オレンジだっけ?」
夢の中の出来事をつらつらと鮮明なままに。
「…ううん。ぜんぶ!そんできんいろ。ぺかぴかってひかるんだ」
大人達にはわからない言葉を目線を合わせて少年は聴き止めていた。
「……………………」
「おれ、もらったとおもったのに。…にいちゃんしらないの?」
黙って聞いた横顔はやっと少年らしい、年頃のそれになった。
「さあなあ…にいちゃんは見てないな。…まだじゃないのかな」
「……………………」
きょとんと、幼い光はようやっと他人の存在に気付いて嵯峨の方を見た。
克哉は汗ばんだ額を押さえていた濡れタオルの裏返しで拭い、弟の目を自分へ向かせた。
「まだ寝たりないだろう。そんなんじゃ、おほしさま飾れないから」
おでこをこつんと、小さな鼻を軽くつまんで笑いかけた。
「おやすみ。ひとりで寝れるな?」
「……………、………うん!」
小さく頷いた背中を押しやり、弟が目を瞑るまで隙間からずっと小さな光で。見守って。
「………おやすみ、達哉」
ふたたび寝息を立てたとき、静かに闇の扉を閉じた。
「…………渡してやらねえでよかったのか?」
ぶちまけた中身を拾い集めていた。その中に。
「…………」
紐のついた星。
あの子が胸を弾ませたほどには、大きくもなく、輝いてもいない。
『星を探しにいくんだ』
満点の星空を指して掬ったとは思えないほど小さくくすんだ。
「………これか………」
ついて出た言葉に、吸い口でふたをした。
「あのひとは…ほんとうにこんなことばっかり…」
悔しそうに唇を噛む。
「?………おめえ」
「……………」
疑問符をひっこめようとしない訪問客にいまいましく、投げつけるように言った。
「達哉が、ツリーに星がないって騒いだから、空からとってきてやるって。…言ったんだ」
だから星か.
「あいつ。幼稚園休みがちで、…すぐ熱出して倒れるから。ずっと寝たり起きたりだし」
星一つであんなに騒ぐなんて。あんな子まだいたんだな。
サンタなんかおもちゃ屋の提携だとわかっているガキばかりかと思ってたが。
「…あんな子だから、ずっと信じて。…秋頃かな、冬近くなるとテレビでみんなやるじゃない。クリスマスだって。…だから、ああいう大きいのが欲しいって言ったんだ。そしたら大きなの空までとってきてやるって。…普段帰れないでしょ。だから見栄はりたかったんじゃないかな。…あんな人だから。いつも、いつも……嘘ばっかり」
これが欲しいばかりに。
「だけどこれが現実じゃないか。…こんなちっぽけなの。渡せるわけないよ」
手を伸ばしたって足りる訳ない。
弟の欲しい空は買えもしないし、飾るところもない。すべて無駄なことなのに。
「冒涜かな。いいよ、殴っても。…だって本当のことだもん。いつも、いつも夢ばかり言って。僕を喜ばそうとする。僕は、そんなこと、一回も頼まなかったのに」
悔しそうに泣いているのは、俺に殴られただけじゃないんだろう。
「僕にだってそうだ。…いつも、ありもしないこと。いつかいつか、って先のことばかり。…僕にはそんなの、見えないのに」
たとえば休日。
休めるなんて思わなかったから、どこにもいかなかった。日曜日。それでも。
「いいなあ。これ、って言うんだ。…なにがいいのかって。そんなの」
車のCM、雑誌のページなんか見て、こんなのいつか、欲しいよなあって。
「僕にはわかんないよ。…だってそのとき、ほしいなんて、おもわなかったもん」
克哉も、もうじき中学だもんな。達哉ももっと大きくなって、そしたらこの家狭くなるなあ。
「時計ばっかり見てた。…まだ何時間って。…遅番で外にいくから。一日いたことなんかないのに」
こんな車も、あったらいいなあ。遠くまでいける。…かっこよかったら友達に自慢できるよなあ。
「どこにだっていけないくせに…いつだって、いけるわけないんだ」
カチコチなる時計が怖い。
「どこにもいけないのに、どこもいつまでいれるかだって」
いらないよ。とうさん。こっちを向いてよとうさん。
「家にもいないのに、外ばっかり。…きらわれたってしょうがないじゃない。そんな家にろくすっぽ帰ってこないのに口ばっかり。…それなのに、いっつも懲りないんだよね」
そんなものみないで。
いらないよ。そんなの。
「…わからないんだよね。あんまりだよ。…ぼくらがなにを欲しがってるかなんて」
こっちをみてよとうさん。
「…………………」
言おうとしてたのか。
あの時の、あの顔は。今のお前はそのまま。あの夜の空を見上げたときそのまま。
あのとき聞こえなかった言葉は。…ずっと、お前思ってたのか。
自分の言葉を持たない子供は、父が気付くのを待っていた。
自分の言葉の代わりに、察してくれる事を信じて。
「ただ、帰って来てくれればよかったんだ」
それだけで。
「僕はなにもいらなかった」
ううん。欲しいものはいくらあっても構わない。
そんなの本気で探しまわらなくても、いつだって見つけられる。
「先のことなんかわからないもの」
見えない場所。見えないところに、行かれたらなにもかも見えなくなってしまう。
僕の背から届かない場所にいっちゃったら見えなくなるよ。…父さんが。
「おおきな家も、車も、あればいいとおもうけど、見えないことのためなんかにはいらないよ」
なんども書き直したカレンダーメモ。
ペンじゃ頼りなくて、鉛筆になって。そのうち何も書かなくなった。
見えない出来事なんて何がおこるか、わからないから。
ずいぶん奇麗に使ったもんだな、って。あなたは笑ったけど。
そうしてしまう原因に気付いてくれないのが。悔しかったんだ。
その時だって、父さんは。
「ちっとも、こっちを。向いてくれないんだ…!」
だって予定がないことなんかより、そんなのが悲しいと思わない?
「知らないよ…」
僕は星なんか見ない。
「あんなひと知らない」
だって見えないよ。
『ほら、克哉。すごいだろ』
僕があれを見上げる時は、影に隠れて見えなかった。
だって見せてくれようとしてる人が、誰より身を乗り出しているんだから。
それでも僕は見せてくれるものよりも、父さんの手にしがみついているのがうれしかった。
『流れ星だ。…あれに三回お願いしよう』
見えないよ。父さん。はやいもの。
『なにお願いしたかな。…かなうといいなあ』
とうさん、僕が願ったのはね。
『おしえないよ』
少しでも、父さんが、はやくかえってくるといいな。
ちょっとでも、遊んでくれるといいな。
いっしょにご飯たべたいな。お昼にお散歩できたらいいな。
『おしえないからね』
そんな、そんなこと。星なんかなくたってかなうこと。
たくさんあるんだよ。だからかな。
一個じゃないからかなわないのかな。
『いいさ、……それでも』
いまこのときだって、父さんはこっちをむいてくれないんだもの。
『克哉の願った事全部、かなうといいよなあ…』
先ばかり見る。父さんの横顔が正面になればいい。こっちを向けばいいのに。
「いらないんだ。……なんにも、いらなかったんだよ」
僕は気になってしょうがないよ。
耳元の大きな腕時計がカチコチなるのが悔しくて、いつだって星を恨んだのに。
ハ
「………あーあ」
丸まった背中の中学生は、おもったよりもガキ臭え面をしていた。
生意気な。皮肉ばっかりならべたてた親友の子どもは、ぶちまけた風呂敷の中身を拾い集めて膝の上に重ね直す。
布を指先でごにょごにょと形作って、器用に結び目を拵えて、涙に腫れた目をこする。
「‥特急列車はね、虫がたくさん入ってきて、冷房なんかきかないし、狭くって体も痛くなるんだけど」
遠い目をする。
体はここにあっても、心はどこか思い出の中をたぐっている。
「自慢もできないし、今さら珍しくもなんでもないんだけどさ」
精一杯背伸びをして、父親が見のがした、届かない星を懸命に探している。
「僕は、新幹線なんかより好きだな。狭いし、汚いし、ちっとも目新しくなんかないけど」
俺にも見える。
目の先に何か開けてくる。こいつの言葉で、俺にもどこからか…夏の色の音がする。
おそらく、俺たちが忘れてしまった場所。
昔はほしくて目指そうとしたのに、高いところへいこうと思って通り過ぎて、すっかり忘れてしまった場所。
「あんまり、めまぐるしいとなんにも見えないよ。せっかくの風景も見えないし、星にだって手がのばせない」
遠くであんなに輝いてたのに、手に取ったものの小ささにがっかりして、もっと遠いところを目指す。あそこまで行けばおそらくどんなに、素晴らしいものが待っているだろう…。後ろなんか振り向かずに。
「すごくきれいなんだ。だってみんなと見るんだよ。父さんも母さんも弟もみんなで、遠いところにいくんだ。…海かなあ…どこでもいいんだけど」
おそらくお前の心の中だ。記憶の、唯一。楽しいページを開いたんだろう。
それがそのままこちらに映る。見ていないはずの光景が心に宿る。
自販機からごろりと、瓶詰めの炭酸水。作り付けてある錆だらけの栓抜きに舌打して、草むらで涼しい場所を探した。
「つまんなくてもいいんだよ。失敗ばっかりでもいい。…でも、帰りの電車ではね」
きっと帰るならこんなところだ。
自分の郷里ではない場所に魂が戻るとしたなら、誰しも望郷を描くんだろう。
だから俺にも見えるんだ。こいつの見ていた唯一の場所に違う思いを巡らせて。
「また来ようねっていうんだ。同じ場所でも、近いところでもいい。約束して、そのつぎに、どこいこうかって言うんだ。かなわなくても、同じ場所。…それが僕のいきたいとこだから」
懐かしくて帰りたくなる。
だけど振り向く訳にはいかなくて、己の小ささを自覚したくなくて。
大きさに夢見る事で何か自分が大きくなったような気がして。
「だってそうしたなら僕にも見える。指差してもらわなくても、見渡せる場所なら、どこにあるかなんて捜さなくて済む。……いつだって、見えるじゃないか」
痛いほどに胸こがれた。
自分の憧れるものの何とデカいことか。…きらきら星。
己の無力に涙して。誰の言葉も聞かずに泣いた。
覚えてる場所だ。…だけどそのうち、とろけなくなって。
熱病のようにうかされた感情は消えて、自分のすべきことだけが漠然と溶け残された。
目指す事。それだけの手がかりしか残らず。
まるで祭りの後のように、さみしくて、やりきれなかった。…覚えてる。
「でも、いいものばっかり、って。遠いんだ。…なんでなのかなあ」
自分にしか見えない、遠い星を目指して。届かない事に泣いたんだ。
「上等じゃなくてもよかった。すぐ手が伸ばせれば。届くところに手が在れば。僕」 ハ
手がかりの。小さな地図。
目印だけが残った。海路も描かれない。そんな小さな手がかりを握って、俺たちはあの星を目指すから。……夢。
「僕は、眠っていられる明日が欲しかったよ」
夢をかなえるために夢を見た代償は。夢から覚めることだから。
「お前」
…消えた。
奴の言葉で俺にも見えた、海と。夏の日と、果てしなく大きな何かが、目の前ではじけた瞬間。
「………ほんとうに、ちっぽけだよね。………僕」
すすり泣いた少年が、ずっと掴んでいた多角形の塊を投げるのをこらえている。……きらきら星。
「…届かないものなんか………ぼくは」
あきらめた手は二度とつながれないのを知ってて。
「……………っ…………!」
握りしめる。手指は、秤の皿からこぼれる、鉄の涙。打ち付ける。
「…………ぼくはなにも………!」
父さん。
「…いらないのに……っ…」
僕こそ、叶わない夢を見たんだ。
人には二つの目が在ると聞いた。
一つの目が覚めるとここは、やっぱり俺の気に入らない生活臭の漂った部屋だ。
「‥あんた、まだいたんだ。もう帰ったかと思ってたよ」
目の前には仏頂面の、ちっともかわいげのない子供がいる。
ようやっと泣き止んだ。それまでずっと吸っていたが、そろそろリミットだ。心もとない。煙草なしで、こんな場所に耐えられる道理そもそも、俺にはない。
「子ども殴ってすっきりしただろ。酔っぱらいはさっさとかえんなよ。だまっててやるからさ」
頬が赤い。いや、赤黒い。
俺が拳で殴った後だ。子供相手に込めすぎたか。
「喫煙者も迷惑だ。…散らかす人がいなくなってせいせいしてたのに」
偉そうな言い方も多分照れ隠しだ。
「今時の警察は訪問時間もわきまえないんだから」
どこか年寄り臭い言い回しの皮肉屋のガキは、ガキなりに踏ん張っているんだろう。
「………………」
畳まれていた。ノリの利いたシャツにはうっすら、こげた跡が見えた。
ハ「………俺に権利は、ないんだけどよ」
下げられた灰皿に舌打ちした。
火も草もあるのにガキの目と、開けかけたままの襖に取り上げられた。
「それでも、やっぱり、止めることはできねえだろ」
散らかした跡を片付けて。
手慣れたふうな段取りでこいつは。
「何の事ですか」
案の定こちらを見もせずに答えても、知らねえ。
俺は仕事で来たんだから。
「息子が父親に憧れるのも、偽物の星を待ってるのもよ。…お前さんが止めてやる権利はやっぱりないだろうよ」
「………………………」
感傷的にならないもんだと思ってたのに。やっぱりこれだ。
「渡してやれよ。…その星が、どんな星かは知らねえけどよ」
聞けよ。どうしようもない。
俺も、お前と同じで建前と本音の垣根がわからん子供なんだ。
「あんたの言ってる事はわけがわからない。…訴えられないうちに帰りなよ。体裁悪くなるだけじゃない」
奴が描く夢や情景がわかってても。
「お前さんは見失うのが、怖いんじゃないのかい」
「…………………!」
現実への投影が難しいとしても、あきらめきれないものの厚みとか。
それでも置いてかれちまう痛みが忘れられないから、上をどれだけ目指せばつくか、見当もつかねえんだ。だけどそれでも。
「どんな星なんだか、心配なんなら、お前さんがついててやればいいじゃねえか」
目測と、立ち位置がわかっていればいい。
目指す者の大きさがわかっていても。還るべき場所との距離を覚えていれば良い。
「……………………」
聞こえてるなら。追いかけるのは怖いことではないと。
聞こえてるならいつだって戻れる。ありかを思い出せば。
「…………………っ」
微動だにせぬまま星のかけらを両端で挟み持っている。
「やっぱり警察なんか迷惑だ。…説教ばっかりしかしない」
聞こえてたのか、口が減らない。
どんなに泣き崩れても頑固なガキの姿勢は、変わらないのにやはり力が抜けているように見えた。
「オヤジさんもだろ」
ギリギリのところで踏んじばって、そう見えないように耐えて来た。
そんなプライドの高い、意地っ張りが通りすがりの男に説教されて我慢できないはずはないんだ。本当は泣き崩れたいところが精一杯だろうにつま先立ちで耐えていたんだ。
「とうさんは違いましたよ。…あのひとは、そんなことできない」
夢に崩れても、次は、次はと、しつこいくらいにあきらめてくれなかった。
そんなに大きいものをあげたかった?でも僕が、欲しいのはただひとつだけ。
「自分にばっかり反省して。そんなひとです。もっと、大人らしかったらよかったんだけどね」
だったら僕も夢見ていられた。
ろくでもないことを言って、人並みに馬鹿な保証のない企みをつくることもできたけど。
「そうかよ」
僕には小さなジャンプすらできないよ。
落ちた時の恐怖が、少しでもなければいい。そんなことばかりだ。…飛べなくたって。
「……そうでしょう?…違いますか?」
俺には、まったくそうは見えなかったぜ。
「さあな」
あいつはいつだか。夢から覚めたパイロットのような顔をして。
空に戻れない悔しさに助言した。それが説教でないなら、うなずけるんだけどよ。
「要らない気を使っているようだから言わせてもらいますけど」
波止場の船止に、テレビのドンファンを真似てかっこいいポーズを決めた。
人目に気づいて、足をおろす。心の中では憧れていても、人に見られるバツの悪さは成長していくたびにわかっていて。何もなかった顔をするんだ。
「…そんなの、いちいち取り上げてたらこれ以上どんなわがまま言われるかわかんないよ」
目で、幼い寝息を追う。
「………………」
一生懸命なのに気づかれるのが恥ずかしくて、気むずかしさで隠していた。
「滅多に帰ってこないくせに、ああいう時だけ熱心なんだ。点数取り。ずるいんだ。…これだけで全部帳消しになっちまう」
ワイヤーのついた星を睨みながら。そうは見せずに潰したい星をただ守っている。
「………そうか」
ああ、なんだ。
俺たちと同じじゃないか。
「調子いいことばっかり言ってさ。だから息子に馬鹿にされるんでしょ」
少しばかり新しいものが増えただけで、ちっとも変わらなかったんだな。
「……そうだな」
あいつは星を捜したと言った。
見つからない軌跡に思いを馳せたって残される者にとっては、たまったもんじゃないのに。
暑さと。日だまりは同じだ。
俺は今日も、あの時と同じ場所に立つ。
「おまえさん。いらないんじゃなかったのか」
昨日は母君の帰宅前に退散した。
少年が泣き止むのを待って、散らかった部屋を片した。
ほとんどは少年が働いたが俺が億劫だった訳でなく、煙たくなるから触るなとの家主の命令だったからだ。
俺が触ったところで今更、部屋の匂いが取れるでもないのに少年は頑なに固辞して結局。
「‥検事さんって意外としつこいんですね」
名前を知っている、家にきたこともある俺を役職で呼ぶ。
受け取ったものには礼を言う。確かに道理なんだが。
「まあなあ。あれだけ拒否されたんならなあ」
そういう呼ばれ方は光栄だが、正しくはまだ副検事だ。
他人にゃどっちも同じだろうが文字一つ有る無しで大きいんだが。まあいい。
「……………………」
今日は金を届けにきただけだ。修繕代と、眼鏡の代金。
外だから大きく息も吸える。煙草なしでも。…持ってはいるが、また固辞されてはかなわない。外じゃどこかにうつることもないが。
「じゃあ、受け取るってことでいいな。君の嫌いな煙草まみれだが、何もないよりマシだろ。俺も遠慮せずに済む」
むき出しで万札を数枚。両手ほど。
「足らなければ言え。毎回期待に添えるとは限らないがな」
減給中の上に給料前の身には辛い。
当分インスタントか、猫飯か。それでも煙草は切らさないだろうが。
義理ではなく見栄だ。こんなガキ…中坊なんぞに気を遣ってたまるか。
「それじゃあな。…約束は果たしたからな」
任務も。義務も。これで終わりの筈だ。
「‥‥約束どおり」
「…………ん?」
上げかけた手を制するように。
「渡しましたよ……達哉にはいいました。‥星が届いてたよって」
昨日の続きか。でなけりゃ、お前…。
「そしたらあいつ、うれしそうにして、離さないから」
「………………………」
咳を切ったように、なのはあの時の父をかばった弁明のままなのだが。
「空のどのへんなんだって。僕にせがむんです。教えてやりたかったけどやめました…。だって僕にはやっぱりわからないから」
にっこりと笑った。可愛い笑みだ。しかしどこかいびつな感じの。
「‥お前さんはなんて答えたんだよ」
口調は事務的なままで。一見何も変わってないのに。どこか変だ。
「………………………」
噛み合わない。昨日のお前はどこにいった?
「‥それはお前が見つけることだよって。言いました。だってやっぱり僕には見えない」
歪んだのをせいぜい直した眼鏡。
普段と変わらない事を強調している、何もなかったと言い張っただろうな目は遠くを見る。
「‥‥達哉は首をかしげたけど、でも、すぐに、わかったって。走っていきました。ああいう素直なのって困りますよね。下手なこといえない。お前の父さん、牢屋なんだよって。まさかそんなことねえ。言えたら簡単なのにね」
まっすぐな目をして語る。…それが俺にはやたらに。
「‥おい」
けれどやはり同じに続ける言葉はどっちつかずに弾んで転げる。
聞かせたいけれど聞かせない言葉を、あさっての方向に放り投げる。
「達哉も夢を見るのかな。大人になっても持ち続けて、星をつかもうとするのかな」
聞かなくていい言葉。聞いても意味を持たない言葉。
見落とせば遥かに遠のいてしまうきらきら星。いつか願いが叶うと唱えた魔法。
「…『誰にもとめる権利はない』よね?」
くやしいけど、あんたの言った通りだ。
「でも僕にはそんな気がしてならない。だってあいつ、わがままなくせに、ときどきすごく物わかりがいいんだ」
早くて見落とすのはあの時と同じで。…そうしたなら僕はなによりかけがえのない者を見失うんじゃないかと。
「どっちかだけなら適当なこといえるのに、両方持ってるからさ。‥次の瞬間どうでられるか。わかんないから。まいるよね。ほんとに」
結局僕はここから誰も見失いたくないだけだ。
「お前さんはどっちなんだよ」
「……………………」
得たものの儚さと、心ひかれた者に怯えた。
どんなに素晴らしいものでも、日々の恐怖心をぬぐいさってはくれないことに。
だから僕は手を伸ばした。どこまで伸ばせばたどり着くかを考えてみた。
「僕のも見えないよ。だって置いてきた」
克哉はカラ手の握りこぶしを胸で引き縛って。コツンと胸を叩く。
「ふたつもあったらわからなくなる。おいてきたよ。だから僕の中には何もないんだ。見るものそのまま受け取るだけ」
叩いた拳を手前に戻す。
ぱっと拡げて、薫の前にかざし見せた。微笑んだまま。
「‥だから、望んでるのは僕なのかもしれない。‥いや、もともとないのかもしれない。だけど、…ぼくにはこれがあった」
「なに‥?」
微笑みに溶かされたのか、身動きが取れなかった。
俺が呑まれる。あの時よりも強いまなざしに、竦んでいた。
「……嵯峨薫くん!」
大きく咳を切った唇。喉を大きく響かせたがなり声。
「……………なっ」
声に目を離したすきに、手のひらは形を変えた。
「敬礼!」
右手は腰に、左手は斜めに、額の前。
「おつとめご苦労様です!」
大声で。子供の遊び。
「よせよ」
表面だけはのどかな、子供の遊び。
つきあう大人とのやりとり、誰にもそう見える。他愛のない、幼稚な。
「任務完了!無事、ホシの遺留品を返還いたしましたっ!」
だけど、この町では事実を通りに曲げないでは叶わない。
遊びではない、のどかな遊び。悩んだ末に幼稚になるしか、過ごして行けない事を悟った。
「やめろよ!……このっ……ふざけるな!」
不意をつかれた、うろたえに。自分自身が驚いている。
こどものすることは、いつだって。
「ふざけてなんかいませんよ」
こどものすることは。見透かせるのに。
「………お前」
「ほんとです」
見当たらないのは。最後の…遊戯か?
「僕は刑事になる」
大人への。始まりが折り合いをつけることなら、勇者はみんな子供なんだ。
思い思いの情景を心に抱く、目に焼き映った思い出をなぞって、おっかけて…。
今まさにそれを子供の仕草でやってのけたお前は、こどもぶって見せかけておいてそのうち実は、わかっているくせに。
「………うそだろう」
ニイッと微笑んで、応答はしなかった。
「……………………」
それならお前は、なぜ逆手で敬礼を切るんだ。
鏡あわせの姿は、あこがれの正体を見切ったからだろう?
「…………………」
お前わかってるのか?
「誤解しないで?」
こぼれたのは星か。見落としか。瞬間に定かでない。
でなければ俺が見誤っているのか。
「跡を継ぐとかそういうのじゃないよ。…僕には見えないし、これからも見えないと思う」
夢を追うのは、その先を信じているからだ。
子が親に続くのはその見通しに任せたいからだ。
わかってるのなら続く理由はないのにお前は、どこの星を捜そうというんだ。
「だけど同じ位置に立って、なにか見えるのか。…いまのままじゃわからないから」
父親が犯人じゃないと信じた。お前は子供なりの確信で何かわかっているのだろう。
「捜してみようと思う。あと、見守る。…当分、僕には目を離せそうもないから」
少年はそのまま、身動きせずに、こちらを見つめていた。
俺はただ、見ているしかない。秤の涙は、もうこぼれない。
…こんな見通し良すぎる場所ではすべての嘘が見抜けてしまう。明るい空にはどんな輝きも消されてしまう。
「……………………」
泣いているような。笑っているのに潤んだ瞳。
悲しみで涙がこぼれそうにも見え、嬉しそうに笑うようにも見えて。‥にらんでいるようにも見える。ないまぜの表情で、奴はこちらを覗いている。
俺以外の人間にはどう見えるんだろうか。やはりほほえましい姿か?
こらえて頑張る、健気な姿か?同情はしても一定位置から寄らぬ大人たちに、こいつなりの審判を下したのか。わかるまいがよ。
「…………少年……」
だけど俺には、今のお前さんのほうが怖いよ。
「…………なんです?」
昨晩、天に侮蔑を向けたこいつの顔は、憎たらしくとも素直だった。
子供嫌いの俺だけでなく、あんな刺々しい顔はあらゆる者にしかめられるだろう。
ゆうべのお前は真実を告げていて、誰しもそれと対峙する事を恐れるのだから。
「…………いや」
「………………」
‥きっとお前は、昼間ずっと、人目のみえるところではずっと、こんな顔をしているんだろう?
「…ああ、また余計なことだ。さよなら検事さん。『警察官』じゃないんでしょ。…それくらい、わかってたよ。僕にだって」
そんなことは。意味がない、か?
「‥おうよ」
でも、お前さんは‥ずっと、そんな顔して生きていくのか?
どの向きでも差し障りの無い微笑をうかべながら、ひといきつくのは誰も知らない、真夜中の断罪だけで。いや、そんな生き方を望んでいる事自体、まだ純なのかもしれねえ。
子供らしさ、よどみを許さない絶対的な正義の中でお前なりの世界を描くのなら。
「あはは!わあいわあい!」
…星が輝いている。俺の近くをくるくると周り、遠くへ走って行った。
「まあ、………いいか」
敬礼の影に手を振る。
「俺には関係ねえ」
たぶんもうあう事はないし、思い出す事もそうなくて、おそらくもう、誘う事も無い。
「……ほんとうにお前って付き合い悪かったよな」
思い出す事も探す事もない星を、見ようとしていた。
見えていたのかわからない。見えていたとして、見えていたからその虜になってしまったのか。
自分は必要としていなくても誰かのために必要な星。憧憬を抱いて結局はそれに殉じてしまった。
だけど、ここにまたお前の探していたあの星を探している奴がいる。
それでも足をつけたまま微動だにしないで、俺の背中をにらんでいる。
表面上の敬意と裏腹に煮えくり返った心の奥底で本当は望んでいない星探しをせざるをえない。子供らしく憧れていただろう何かをかなぐり捨ててまで父を追うと言うあの目は。
その星そのものを憎んでも、望んでは居なくても、同じ何かに引きつけられてしまった心は、おそらくそれを探し出すまで他を見つめる事はしないだろう。
自分のよりどころではなく、誰かを追いかけることでより光る、罪深き一等星を望んで。
引きつけられて行く姿を俺は再度見た。
一人はお前と、もう一人は。信じる事に破れた疑念を持ち続ける。他人よりも早く大人になってしまったことと引き換えに、運命だとしても年頃の感情すらひとつも持ち得ないまま…。
「ああ、いやだ。いやだね」
第三者が関わるとロクなことがないと決め込んでいたのに。気付けばひっかきまわしているのは自分だった。
夢を果たしてこの職業に就いた。しかし、今回の事で夢が夢のままで持続しない事も身を持って知った。
ひとかけらに、彼と同じ思いもあったんだろうが。果たして。
俺が降ろされたのは本当に知人だったからだろうか?それを知る手だてはすでにない。
あくまで推測に過ぎないが、真実を追って必ずしも真実にはたどり着かない。それもまた事実だ。
宣告されなければあの言葉の真意すら知る事はなかった。…これは何を意味する?
「性にあわねえことはするもんじゃねえな」
子供相手に怒鳴ったり、本気で殴ることなんか独り身には関係ないと思ってたからさ。
でもやっぱり子供は嫌いだ。
「人には二つ、目が在る。…だけどそれは片目を瞑るためではないって…俺は思うよ先輩」
時々痛いところを突く。怒ろうとしてもごまかしては。自分の番になれば逆につついてくるのに、子供だから許される。痛いのは大人ばっかりで…。
「見開くのもいけない。…足場を見失う」
子供は嫌いだ。だから範囲外。
性にあわねえことはしねえ。信じるところを進んで行く。それが俺の領分だ。
「なあ。先輩。………正義ってもんは大変だね」
立証し損ねた火種をつける。煙を吸い込んで天に吐く。
煙たいかい?それとも旨いか?
子供らのいない場所の今なら、あんたは何ていうんだろう。
「真実ってもんもそうさ。あんたの言う通りにね、身の丈にあわせて返上すりゃあ。少しは楽かもしれないけど」
あんたにもそんなふうに思えたのかね?
それともこの先もずうっとあれを追っかけていられる俺に嫉妬したんだろうか。ぶざまに墜ちたパイロットは。
「でもそれは出来ないよ。…あんたが教えた通りにね」
でもあんたと俺は違うよ。
俺はおっかけられもしない星を燃料ひとつで追って行かない。
「人には二つ目が在る。…聞こえてるか?あんたが教えてくれたんだ」
真実を掴むといったのは嘘じゃないさ。俺は掴んで、誰かに見せる。指差すだけじゃ終わらせない。消えかけるのを待っているような悠長なことはできないさ。
あんたの言う通りに、身ぎれいな真実なんてない。必ず誰かの思惑を伝って、誰かの思惑通りに染まりながら状況に応じて形が歪んで行く。
「人には二つ、目が在る。……決まってんじゃねえか。閉じてようが空いてようが」
見える物はおそらく、望みの先にある。
自分で望んだ光景が覗く。それが人の目だ。
だけど、まっすぐに一本道で目的までつっきっていける航路なんて誰にでも見つけられるわけじゃない。
あんたは見つけた。俺には見当たらない。
それだけの話で、あんたの見つけた通りにゆかない不出来な後輩にご立腹かもしれない。
せっかく謎掛けをくれても。俺には額面通りだけだ。
目が二つあっても、上下は一度に見れないんだ。俺は臆病だからよ。
覆いかぶさる風景。かつての魔法。
星を追った。あれは本当はいったい何を告げたかったのだろうか。
「……おぼえてるさ。そんなの。……だけど、俺にはみえねえんだよ」
生憎、と。
今もまぶたに残る星空を払いのけて、空に押し投げた。
【終】
おつかれさまでした。ツ−ルバーのresetでお戻り下さい。